北海道地方

2011年10月18日火曜日

土方センター-大阪府大阪市浪速区(2009.02.21)

■土方センター
大阪府大阪市浪速区恵美須東1-7-7
※2009.02.21撮影
※2011.10.08撮影


◆南陽新地(現在の新世界・ジャンジャン横丁)

新世界(しんせかい)は、大阪府大阪市浪速区恵美須東に位置する繁華街。中央やや北寄りに通天閣が建ち、南東部にジャンジャン横丁がある。明治30(1897)年に大阪市へ編入される以前は西成郡今宮村の一部で、畑地や荒地が広がっていた。市街化のきっかけとなったのが、明治36(1903)年に開催された「第5回内国勧業博覧会」で、東に隣接する旧東成郡天王寺村の一部とともに会場地となった。「内国」とあるが、国内外からの最新技術が披露された点では「万博」に近いものがあり、博覧会は5ヶ月間で入場者530万人という大盛況の内に幕を閉じた。

博覧会に合わせて日本橋筋の3丁目以南(現在のでんでんタウン)が整備され、明治41(1908)年には博覧会跡地北西角の恵美須交差点から大阪市電南北線が難波を経由して梅田まで開通。次いで明治44(1911)年には同交差点南西角の恵美須町駅から阪堺電気軌道(旧)が堺市へ向けて開業し、交通の便が整った。なお、博覧会跡地南縁には既に明治22(1889)年5月、大阪鉄道(初代。関西鉄道を経て現・JR関西本線)が通じており、南東角に位置する天王寺駅が最寄駅だった(新今宮駅は戦後の開業)。博覧会跡地は日露戦争中に陸軍が使用したのち、明治42(1909)年に東側の約5万坪が大阪市によって天王寺公園となり、西側の約2万8千坪が大阪財界出資の大阪土地建物会社に払い下げられ、ここに新世界の開発が始まった。

北から順に、恵美須町1丁目(現・恵美須東1丁目)には南端中央に円形広場を設け、パリの街路に見立てた3方向の放射道路を北へ配すことになった。放射道路は西から順に「恵美須通」「玉水通」「合邦通」と命名された。北霞町(現・恵美須東2丁目)には北端中央にエッフェル塔を模した塔を建て、「仲町」とも称する中心街区を形成することとし、塔は儒学者である藤沢南岳により「通天閣」と命名された。南霞町(現・恵美須東3丁目)にはニューヨークのコニーアイランドに似た遊園地を開くこととし、「ルナパーク」と命名された。明治45(1912)年に初代通天閣およびルナパークが完成、7月に開業した。この時の通天閣は凱旋門の上にエッフェル塔を載せた様子を模したもので、現在とは外見が異なり、また、現在のものよりも南側にあった。通天閣とルナパークの間にはイタリアのセレッティ・タンファーニ(Ceretti&Tanfani)社が製造した日本初の旅客用ロープウェイを設置し、ルナパーク内に置かれた「幸運の神」ビリケン像と共に名物となっていた。

通天閣及びルナパークの開業により、新世界には芝居小屋や映画館、飲食店が集まり出し、大正4(1915)年には東に隣接する天王寺公園西部に天王寺動物園が開園、大正7(1918)年には南東に隣接して飛田遊廓が開設、大正8(1919)年には新世界に大阪国技館が建設され、周辺地域を含め一大歓楽街として認識されるようになる。そんな中でルナパークは振るわず、大正12(1923)年に閉園となり、跡地は大阪市電天王寺車庫に転用された。第二次世界大戦中の昭和18(1943)年1月、通天閣が脚下の大橋座の火災に巻き込まれて損傷。同年2月、金属類回収令による鉄材供出のために解体された。加えて昭和20(1945)年3月13日の第1回大阪大空襲では新世界も被災・壊滅した。

昭和22(1947)年、ジャンジャン横丁が先ず復興し、昭和31(1956)年10月28日には現在の二代目通天閣が開業した。夜景庶民的な繁華街として親しまれてきた新世界だが、大手私鉄のターミナル駅に恵まれなかったこと、観光の多様化などに伴い、1990年代までは衰退していた。しかし、発展していない「昔の繁華街」の雰囲気が、現在は却って観光資源になっている面もある。かつての新世界は、その独特の雰囲気で人々を惹きつけ、多くの小説・漫画の舞台ともなったが、一方であいりん地区や飛田新地に隣接し、「街娼に声をかけるな」の貼り紙が至る所にあるなど、一般人はおいそれと立ち入り難い側面もあった。平成9(1997)年(年)、新世界では久々の大規模施設としてフェスティバルゲートとスパワールドが、天王寺車庫跡地に開業したものの、平成16(2004)年6月にはフェスティバルゲートは経営破綻している。