北海道地方

2014年11月20日木曜日

【覚書】北新地の歴史<その3>-大阪市北区(2014.11.20)

明治45年「北新地」が誕生

明治に入ると、遊所地の中心部が、徐々に現在の北新地の場所へと移ってくる。明治42(1909)年に発生した、空心町を火元とする「北の大火」は、西へ西へと福島まで燃え広がり、辺り一帯が消失するという明治以後最大の火災となった。瓦礫の捨場となった曽根崎川はその後埋め立てられ、明治45(1912)年に堂島新地と曽根崎新地が一体化され、これが「北新地」の誕生となる。「北の大火」に見舞われたわずか6年後の大正 4(1915)年には、「北陽演舞場」が新築される。「北新地演舞場」が火災で焼けた後に再建されたものであるが、「【天満焼け(北の大火)】から、たった数年でこれだけ大規模な建築物を造った当時の北新地の復興力と財力は凄まじいものがあった。人々の芸事に対する思いにも、強いものがあったのだと思う」と当時の貴重な資料を所蔵する、北新地社交料飲会の元副理事長である牡丹俊夫氏は語る。北新地では明治15(1882)年から、「浪速おどり」が演じられてきた。堀江の「この花踊り」、南地の「浪速踊り」と並んで、大阪の春を飾る有名なイベントで、なかでも「浪速おどり」はもっとも古いものであった。大正 7(1918)年、当時の記録では「北新地」には芸妓置屋11軒、貸席153軒、芸妓825人がいたと記されている。

「北新地社交料飲協会50周年記念誌」より抜粋

◇明治(めいじ)
新暦1868年1月25日(旧暦明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは慶応4年9月8日(1868年10月23日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年とすると定めた。

◆明治元(1868)年 寺島の北部(現在の大阪市西区千代崎1丁目・2丁目)に「松島新地」開場
◆明治 2(1869)年
◆明治 3(1870)年
◆明治 4(1871)年
◆明治 5(1872)年 「堂島新地」という町名が無くなる
◆明治 6(1873)年
◆明治 7(1874)年
◆明治 8(1875)年
◆明治 9(1876)年
◆明治10(1877)年
◆明治11(1878)年
◆明治12(1879)年
◆明治13(1880)年
◆明治14(1881)年
◆明治15(1882)年
◆明治16(1883)年
◆明治17(1884)年
◆明治18(1885)年
◆明治19(1886)年
◆明治20(1887)年
◆明治21(1888)年
◆明治22(1889)年
◆明治23(1890)年
◆明治24(1891)年
◆明治25(1892)年
◆明治26(1893)年
◆明治27(1894)年
◆明治28(1895)年
◆明治29(1896)年
◆明治30(1897)年
◆明治31(1898)年
◆明治32(1899)年
◆明治33(1900)年 娼妓取締規則
◆明治34(1901)年
◆明治35(1902)年
◆明治36(1903)年
◆明治37(1904)年
◆明治38(1905)年
◆明治39(1906)年
◆明治40(1907)年
◆明治41(1908)年 非公認の売淫が取り締まられる
◆明治42(1909)年 「北の大火」発生
◆明治43(1910)年
◆明治44(1911)年
◆明治45(1912)年 堂島新地と曽根崎新地が一体化


◇大正(たいしょう)
大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。

◆大正元(1912)年
◆大正 2(1913)年
◆大正 3(1914)年
◆大正 4(1915)年 「北陽演舞場」が新築される
◆大正 5(1916)年
◆大正 6(1917)年
◆大正 7(1918)年 芸妓置屋11軒、貸席153軒、芸妓825人
◆大正 8(1919)年
◆大正 9(1920)年 2代目夕霧太夫(中村芳子)生誕
◆大正10(1921)年
◆大正11(1922)年
◆大正12(1923)年
◆大正13(1924)年
◆大正14(1925)年
◆大正15(1926)年

◎中村芳子(なかむら よしこ)
1920年10月30日~1987年12月3日、日本の女優・太夫。本名は渡辺芳子。夫は四代目中村富十郎、長男は初代中村亀鶴、父は初代中村鴈治郎。父の生家であった大阪新町の妓楼・扇屋が初代・夕霧太夫ゆかりの店であった縁で昭和55年(1980年)11月に夕霧太夫を襲名。毎年11月第2日曜日に初代ゆかりの寺で京都・嵯峨にある清涼寺にて開催される「夕霧供養祭」を始めたのは彼女である(彼女の死後は現役の太夫が行事を引継ぎ参加している)。島原の太夫として活躍の後、昭和62年(1987年)12月逝去。昭和63年(1988年)11月に清凉寺に歌碑が建てられる。

『あでやかに 太夫となりて 我死なん 六十路過ぎにし 霧はかなくも』