ラベル 1908 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 1908 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年1月6日金曜日

赤穂市民俗資料館・旧書庫・旧塩倉庫(旧赤穂塩務局庁舎)①-兵庫県赤穂市(2017.01.05)

■赤穂市民俗資料館・旧書庫・旧塩倉庫(旧赤穂塩務局庁舎)
明治41(1908)年
兵庫県赤穂市加里屋805-2
http://www.ako-minzoku.jp/
※2017.01.05撮影
写真は後で追加します

赤穂市民俗資料館・旧書庫・旧塩倉庫(旧赤穂塩務局庁舎)②-兵庫県赤穂市(2017.01.05)

■赤穂市民俗資料館・旧書庫・旧塩倉庫(旧赤穂塩務局庁舎)
明治41(1908)年
兵庫県赤穂市加里屋805-2
http://www.ako-minzoku.jp/
※2017.01.05撮影
写真は後で追加します


2016年5月4日水曜日

【明治村 65】 高田小熊写真館①-新潟県上越市(2016.04.30) ◎外観・内装

■高田小熊写真館
明治41(1908)年頃
旧所在地 新潟県上越市本町
博物館明治村5丁目65番地
※2016.04.30撮影

















【明治村 65】 高田小熊写真館②-新潟県上越市(2016.04.30) ◎外観・内装

■高田小熊写真館
明治41(1908)年頃
旧所在地 新潟県上越市本町
博物館明治村5丁目65番地
※2016.04.30撮影





























★以下は、画像整理用覚書

銀板写真と呼ばれる写真術が日本に渡来したのは幕末1840年代のことである。続いて1850年代の末頃湿板写真が導入され、明治中期には乾板写真に移行し、さらに今日のフィルムへと変遷をとげた。  明治時代においては、写真術は高度な理化学の知識と長年月の修練を要し、誰にでも簡単にできるというものではなかった。このため写真師は文明開化の花形職業として高い収入と大きな名声を得ていたのである。
この建物は、昔から豪雪地として知られ、日本のスキー発祥の地である越後高田の街なかに、明治41年(1908)頃建てられた洋風木造二階建の簡素な写真館である。階下には応接間、暗室のほか作業室兼用の居室があり、二階に写場(スタジオ)が設けられていた。創建以後、時世の変化に応じて増築や模様替えが重ねられていたため、移築に際しては創建時の姿に復原することに努め、背面及び内部の後補部分は取り去った。しかし、正面の突出部分は改造後の姿をそのまま復原した。
大工棟梁によって地方に建てられた明治末大正初期の写真館の俤が偲ばれる。
当時、写真師が写場を設営するにあたり最も苦労したのは、人工照明がないため、外光を写場にいかに効果的に取り入れるかであった。そのため屋根やカーテン、反射板等に様々な工夫が凝らされ、この写真館でも北側の屋根を全面ガラス張にし、独特の白黒天幕を用いて光景を調節できるようにしている。又、写真師は写真館の外観とともに、「書割」と呼ばれるバックや小道具にも力を注ぎ、専門の絵師にバックを描かせたり、高価な舶来の小道具を購入する等、その豪華さを競い合った

2016年5月3日火曜日

【明治村 05】赤坂離宮正門哨舎-東京都港区(2016.04.30) △外観のみ(近景)

■赤坂離宮正門哨舎
明治41(1908)年
旧所在地 東京都港区元赤坂
博物館明治村1丁目5番地
※2016.04.30撮影


















★以下は、画像整理用覚書


銅板葺の丸屋根をいただき、外壁を白ペンキで塗ったこの可愛らしい建物は、赤坂離宮正門両脇の内外に、離宮の創建当初からその警護のため設けられていた四基の哨舎のうちの一つである。現在迎賓館となっている赤坂離宮は、明治42年(1909)東宮御所として竣工した代表的な明治の洋風宮殿で、本館前面には広大な西洋式庭園をはさんで見事な洋風の正門が設けられ、この正門哨舎もこれらに調和するよう設計されている。

元紀州徳川家の中屋敷は、明治5年(1872)赤坂離宮とされ、翌6年の皇居炎上から同21年(1888)の新皇居落成までは仮皇居となっていた。その後は東宮御所として使われることになり、明治20年代の末、新御殿造営の計画が開始された。設計にあたった片山東熊は、明治10年(1877)に開講された工部大学校造家学科でイギリス人建築家コンドルの教えを受けた第一回卒業生四人のうちの一人で、卒業後は工部省を経て宮内省内匠寮に移り、帝国奈良博物館、帝国京都博物館等を手がけ、宮廷建築家となった。片山は赤坂離宮の設計にあたって、調査のため度々欧米諸国を訪ねているが、なかでもフランスのベルサイユ宮殿やルーブル宮殿の意匠に強い興味を示し、設計の範としている。

  • 赤坂離宮正門旧状

【明治村 33】宗教大学車寄-東京都豊島区(2016.04.30) ×未確認

■宗教大学車寄
明治41(1908)年
旧所在地 東京都豊島区西巣鴨
博物館明治村3丁目33番地
※2016.04.30未確認(ToT)

★以下は、画像整理用覚書


この建物は、現在明治村3丁目の岬の広場に「あずまや」の如く建てられているが、本来は明治41年(1908)東京郊外の巣鴨に新築された私立宗教大学本館の車寄であったものである。

木造二階建の本館校舎は、講堂を中心に左右に教室を配した一文字型の大きな建物で、その正面にこの車寄があった。この高さ6.9mの車寄からも推し測られるように、本館はバロック風の大屋根を頂く壮大な明治末期の特色ある洋風建築で、車寄と同様、腰石には花崗岩が積まれていた。
大正15年(1926)大正大学と改称された後も、長く校舎として使われ、椎尾弁匡をはじめとする宗教学の諸碩学が子弟の教育に当たった由緒ある建物でもあった。
昭和43年(1968)2月、折から帝国ホテルの保存問題が世間の注目を集めていたが、この宗教大学本館が消え去ることを惜しみ、明治村では本館の俤を残すこの車寄部分を解体・保存した。




2012年5月24日木曜日

聖母女学院本館(旧陸軍第16師団司令本部庁舎)①-京都府京都市伏見区(2012.05.20)

◆京都の住民がガイドする京都のまち歩きイベント「まいまい京都」さん
2012年05月20日(日) 10:00~12:00

【深草】“軍都”深草!戦争のなかの京都を訪ねて
~師団司令部、軍道、軍人湯…京の戦争遺産を歩く~


■聖母女学院本館(旧陸軍第16師団司令本部庁舎)
明治41(1908)年
京都府京都市伏見区深草田谷町1
松村組
煉瓦造り2階建て

※2012.05.20撮影

明治政府の富国強兵策の中、明治21(1888)年に大阪の第4師団工兵第4大隊が伏見奉行署所跡におかれた。明治30(1897)年、日清戦争後の軍備拡張策の中、第4師団の編成替えが行われ、新設の第38連隊が深草村(現在の京都教育大学の敷地)に置かれた。日露戦争後も軍備の拡張が進められ、2個師団が新設される。その一つ第16師団の駐屯地として深草村が選ばれる。新たに師団司令部、騎兵連隊、砲兵連隊、輜重兵隊などが新設された。現在、師団司令部の本部庁舎の建物が聖母女学院に残されている。