◆旧海崎医院
明治20(1887)年頃
兵庫県朝来市生野町口銀谷2-455
木造平屋建、瓦葺、建築面積47㎡、1棟
登録有形文化財
※2018.09.23撮影
2018年9月28日金曜日
2016年5月3日火曜日
【明治村02】大井牛肉店-神戸市中央区(2016.04.30) △外観のみ(近景)
■大井牛肉店
明治20(1887)年
旧所在地 神戸市生田区元町
博物館明治村1丁目2番地
※2016.04.30撮影
★以下は、画像整理用覚書


日本では獣の肉は嫌われていたが、開国に伴い外人が牛肉を食する習慣を知ると、「牛肉食わねば開化不進奴」と粋がる風潮が、東京を皮切りに次第に全国に広がっていった。
明治村の大井牛肉店は、牛鍋屋としての営業も行っている。
明治20(1887)年
旧所在地 神戸市生田区元町
博物館明治村1丁目2番地
※2016.04.30撮影
★以下は、画像整理用覚書

横浜、長崎につぎ、慶応3年(1867)神戸が開港した。外国船が寄港し、外国人居留地には外国人の住宅が次々と建てられた。これに伴い、外国人相手の商売が興り、船や在住外国人に牛肉を納める者達も出てきた。その一人岸田伊之助が明治20年(1887)頃牛肉販売と牛鍋の店として建てたのが、大井牛肉店である。外国の商館が立ち並ぶ新しい町、その街中の商店にふさわしく、洋風の建物で、正面を華やかに飾った。一階の入口と二階のベランダをアクセントとして、間口の狭い壁面に変化をもたせるとともに、西洋古典様式の柱と半円アーチの窓を配して全体を大きくみせている。洋風のデザインであるが、日本古来の技法が用いられ、木造に白漆喰を塗って柱や窓廻りを形作っている。屋根構造も和小屋で、桟瓦を葺いている。 玄関を入ると、店の土間が建物の前半分を占め、裏に抜ける通り土間が左奥に、右奥には座敷の配置となっている。牛鍋を供する場所は二階の大小四つの部屋でありいずれも板敷きの洋間になっている。

大井牛肉店正面を飾る柱のデザインは、ギリシャ・ローマ建築の様式の一種で、コリント式と呼ばれ、華やかなものとして知られている。手摺を支える"とっくり型"の手摺子はルネサンス以降に発達したものである。
洋風が目立つ正面の意匠の中で、ひときわ異彩をはなつ玄関の庇。京風のむくり破風に鶴を飾り、金の浮き文字看板を掲げている。
洋風が目立つ正面の意匠の中で、ひときわ異彩をはなつ玄関の庇。京風のむくり破風に鶴を飾り、金の浮き文字看板を掲げている。
牛鍋(すき焼)
日本では獣の肉は嫌われていたが、開国に伴い外人が牛肉を食する習慣を知ると、「牛肉食わねば開化不進奴」と粋がる風潮が、東京を皮切りに次第に全国に広がっていった。明治村の大井牛肉店は、牛鍋屋としての営業も行っている。
ラベル:
【明治村】,
***【トラベル】20160430,
***【明治村02】大井牛肉店,
1887,
愛知県,
犬山市,
神戸市,
神戸市中央区,
兵庫県
【明治村 09】森鴎外・夏目漱石住宅-東京都文京区(2016.04.30) ×未確認
■森鴎外・夏目漱石住宅
明治20(1887)年頃
旧所在地 東京都文京区千駄木町
博物館明治村1丁目9番地
※2016.04.30未確認(ToT)
★以下は、画像整理用覚書


明治20(1887)年頃
旧所在地 東京都文京区千駄木町
博物館明治村1丁目9番地
※2016.04.30未確認(ToT)
★以下は、画像整理用覚書
明治中期のごくありふれた建坪39坪(129.5㎡)余りのこの建物には、数々の由緒が遺されている。
明治20年(1887)頃、医学士中島襄吉の新居として建てられたものであるが、空家のままであったのを、明治23年森鴎外が借家、一年余りを過ごした。又、明治36年(1903)から同39年までは夏目漱石が借りて住んでいた。
明治20年(1887)頃、医学士中島襄吉の新居として建てられたものであるが、空家のままであったのを、明治23年森鴎外が借家、一年余りを過ごした。又、明治36年(1903)から同39年までは夏目漱石が借りて住んでいた。

鴎外は、ここに移り住む同じ年の1月、処女作小説「舞姫」を発表、この家では「文づかひ」等の小説を執筆し、文壇に入っていった。その後数々の作品を残し、明治の文豪の一人に挙げられるが、本業は陸軍の軍医で、明治17年(1884)から4年間ヨーロッパに留学、教育を受ける間に、「日本家屋論」をドイツの学会で発表した。これは、日本の家について、欧米から「不衛生」等と指摘されることに反駁するための論文であったが、認めざるを得ない点として、次のように示している。"家が低く、立ち机には向かない。畳は不衛生な材料である。家の構造そのものが暖房に向いていない。"と。

一方、約10年遅れてこの家に住んだ漱石は、ここで「吾輩は猫である」を発表、文壇にその名を高めた。文中に描写された家の様子は、猫のためのくぐり戸をはじめ、よくこの家の姿を写している。
二人の文豪が相次いで住んだことは由緒のあることだが、この家が当時の典型的中流住宅であって、かつ現代住宅へ発展していく新しい芽がいくつか含まれている点も注目される。3畳の女中部屋の前に、ほんの短いものではあるが中廊下のはじまりが見られ、各部屋の独立へと一歩踏み出している。また、南の面に書斎を突き出して建てており、この形が後に洋間の応接室として独立していく。西郷從道邸、学習院長官舎等と比較する時、一般庶民の洋風化の限界がそこにある。
二人の文豪が相次いで住んだことは由緒のあることだが、この家が当時の典型的中流住宅であって、かつ現代住宅へ発展していく新しい芽がいくつか含まれている点も注目される。3畳の女中部屋の前に、ほんの短いものではあるが中廊下のはじまりが見られ、各部屋の独立へと一歩踏み出している。また、南の面に書斎を突き出して建てており、この形が後に洋間の応接室として独立していく。西郷從道邸、学習院長官舎等と比較する時、一般庶民の洋風化の限界がそこにある。
ラベル:
【明治村】,
***【トラベル】20160430,
***【明治村09】森鴎外・夏目漱石住宅,
**個人住宅,
1887,
愛知県,
犬山市,
東京都,
東京都区部,
東京都文京区
【明治村 32】神戸山手西洋人住居-神戸市中央区(2016.04.30) ×未確認
■神戸山手西洋人住居
明治20(1887)年
旧所在地 神戸市生田区山本通
博物館明治村3丁目32番地
※2016.04.30改修中の為、未確認(ToT)
★以下は、画像整理用覚書


明治20(1887)年
旧所在地 神戸市生田区山本通
博物館明治村3丁目32番地
※2016.04.30改修中の為、未確認(ToT)
★以下は、画像整理用覚書
それぞれ木造総二階建の主屋と付属屋からなる住宅であるが、建物の沿革は余り明確にはなっていない。明治20年代(1887~1896)に建てられたものと推定され、当初は外国人のものであったと思われるが、同29年(1896)には日本人増田周助の所有であったとの記録がある。

先の長崎居留地二十五番館と同じ頃の外人住居であるが、雰囲気にはかなり違ったものがある。平家建でゆったりとした長崎二十五番館が明治初期の植民地住宅的な雰囲気を遺すのに対し、この神戸の建物はより本格的な西洋館になっている。これは、当時神戸が横浜と並んで貿易港として発展をみせており、建物にも洗練されたものが求められたためと考えられる。

この住宅では、敷地が狭いという悪条件の中で建物をより良く見せるため、工夫がこらされている。ベランダの柱を整然とは建てず、場所によって二本、三本と並べ、その間隔もまちまちにすることにより、建物に変化を持たせ実際以上に大きく見せている。又、ベランダから室内へ数多くの出入り口を設けているのは、余り広くない室内をベランダと一体で使うための配慮であろう。
主屋は上下階とも同じ間取りになっている。玄関、階段、中廊下を一まとめにし、左右に一部屋づつを配して、ベランダをL字に添わせている。付属屋一階には使用人が居たが、他のどの部屋とも結ばれておらず、主人家族のプライバシーの枠外とされていた。
ラベル:
【明治村】,
***【トラベル】20160430,
***【明治村32】神戸山手西洋人住居,
**個人住宅,
1887,
愛知県,
犬山市,
神戸市,
神戸市中央区,
兵庫県
2016年5月2日月曜日
【明治村 54】天童眼鏡橋-山形県天童市(2016.04.30) △外観のみ(近景)
■天童眼鏡橋
明治20(1887)年
旧所在地 山形県天童市天童から老野森
博物館明治村5丁目54番地
※2016.04.30撮影
★以下は、画像整理用覚書
アーチ構造の歴史は古く、紀元前4000年のチグリス・ユーフラテス地方にその原形を見ることができる。時代が下がって古代ローマに伝えられ、ローマ建築の基本構造に発展した。その構造は橋にも使われており、有名な水道橋に見られるように、築造技術は既に頂点に達していた。日本でのアーチ橋の初期の実例としては、江戸初期に造られた長崎の眼鏡橋があげられる。技術的には中国からの伝来と考えられ、そののち九州に多く架けられていったが、明治に入ると、欧米からの技術も加えられ、各地で架けられるようになった。日本の場合、欄干の組み立てなどには木造の技術も応用され、親柱に手摺を差し込むなどの構法がなされている。
石造でもレンガ造でも同じであるが、アーチは「迫持ち」という原理によって成り立っている。くさび型の材料を円弧上に積み上げ、個々のくさび型の部材がその重量で中心へ落ち込もうとすることにより、隣り合う部材同士がきつく密着して、全体として形を保つ。その構造上、アーチを作る材料は十分に強固な材料でなければならず、かつ上部の重量も十分にあることが必要である。東京御茶の水の聖橋などは、アーチの応用例で、アーチの部分を厚い鉄筋コンクリート造とし、上部の重量が重くなりすぎないように束を立てて道路面の重量だけをアーチに伝えている。
明治20(1887)年
旧所在地 山形県天童市天童から老野森
博物館明治村5丁目54番地
※2016.04.30撮影
★以下は、画像整理用覚書
この石造アーチ橋は明治20年(1887)将棋の駒で有名な山形県の天童に、それまであった木橋に替えて架けられたもので、「多嘉橋」と呼ばれた。幅7.7m、長さ13.3m、拱矢比(アーチ径間と高さの比)2.6のゆったりとしたアーチ橋で、地元の山寺石を積んで造られている。
アーチ構造の歴史は古く、紀元前4000年のチグリス・ユーフラテス地方にその原形を見ることができる。時代が下がって古代ローマに伝えられ、ローマ建築の基本構造に発展した。その構造は橋にも使われており、有名な水道橋に見られるように、築造技術は既に頂点に達していた。日本でのアーチ橋の初期の実例としては、江戸初期に造られた長崎の眼鏡橋があげられる。技術的には中国からの伝来と考えられ、そののち九州に多く架けられていったが、明治に入ると、欧米からの技術も加えられ、各地で架けられるようになった。日本の場合、欄干の組み立てなどには木造の技術も応用され、親柱に手摺を差し込むなどの構法がなされている。アーチ
石造でもレンガ造でも同じであるが、アーチは「迫持ち」という原理によって成り立っている。くさび型の材料を円弧上に積み上げ、個々のくさび型の部材がその重量で中心へ落ち込もうとすることにより、隣り合う部材同士がきつく密着して、全体として形を保つ。その構造上、アーチを作る材料は十分に強固な材料でなければならず、かつ上部の重量も十分にあることが必要である。東京御茶の水の聖橋などは、アーチの応用例で、アーチの部分を厚い鉄筋コンクリート造とし、上部の重量が重くなりすぎないように束を立てて道路面の重量だけをアーチに伝えている。
ラベル:
【明治村】,
***【トラベル】20160430,
***【明治村54】天童眼鏡橋,
1887,
愛知県,
犬山市,
山形県,
天童市
2013年7月10日水曜日
恵比寿ガーデンプレイス-東京都渋谷区(2013.07.06)
■恵比寿ガーデンプレイス
平成 6(1994)年
東京都渋谷区恵比寿4-61-1
敷地面積:82,366m²
建築面積:31,651m²
延床面積:476,351m²
設 計:久米設計・住宅・都市整備公団
施 工:A工区⇒大成建設他8社/B工区⇒鹿島他8社
管理運営:サッポロ不動産開発株式会社
http://gardenplace.jp/index.html
※2013.07.06撮影
明治20(1887)年9月6日、日本麦酒醸造(のちの日本麦酒→サッポロビール、現・サッポロホールディングス)が目黒村三田(現在の目黒区)、渋谷村(現在の渋谷区)にまたがる地帯に設立した工場で「ヱビスビール」を製造し始めたのが始まり。日本鉄道がヱビスビール輸送用の駅「恵比寿駅」を設立し、その後、正式に「恵比寿」が町丁名となり、地名としての「恵比寿」が定着した。
平成 6(1994)年
東京都渋谷区恵比寿4-61-1
敷地面積:82,366m²
建築面積:31,651m²
延床面積:476,351m²
設 計:久米設計・住宅・都市整備公団
施 工:A工区⇒大成建設他8社/B工区⇒鹿島他8社
管理運営:サッポロ不動産開発株式会社
http://gardenplace.jp/index.html
※2013.07.06撮影
明治20(1887)年9月6日、日本麦酒醸造(のちの日本麦酒→サッポロビール、現・サッポロホールディングス)が目黒村三田(現在の目黒区)、渋谷村(現在の渋谷区)にまたがる地帯に設立した工場で「ヱビスビール」を製造し始めたのが始まり。日本鉄道がヱビスビール輸送用の駅「恵比寿駅」を設立し、その後、正式に「恵比寿」が町丁名となり、地名としての「恵比寿」が定着した。
2012年3月2日金曜日
慶雲館表門-滋賀県長浜市(2009.09.19)
■慶雲館表門
明治20(1887)年
滋賀県長浜市港町2-5
http://www.nagahamashi.org/bunka/meiji/keiunkan/
※2009.09.19撮影
中は開園時間を過ぎていたため観れてません(ToT)
明治20(1887)年
滋賀県長浜市港町2-5
http://www.nagahamashi.org/bunka/meiji/keiunkan/
※2009.09.19撮影
中は開園時間を過ぎていたため観れてません(ToT)
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