2015年2月10日火曜日

桜町界隈の町並み-大阪府枚方市(2015.02.07)

■桜町界隈の町並み
※2015.02.07撮影

『赤線跡を歩く』木村聡著 p110

枚方もまた京街道の宿場町で、淀川の河港としてにぎわい、本陣・脇本陣が置かれた交通の要所だった。飯盛旅館が繁盛していたことも想像に難くなく、明治以後は貸座敷免許地の指定を受けている。昭和初年には三十五軒の店があって、女性の数は百十人。ほとんどが送り込み制だったとある。送り込み制とは、女性の控えてる置屋と客の登楼する店が別になっていることを指している。これに対して居稼ぎ制というのは、店に娼妓が住み込んでいる。いわゆる妓楼のことであり、関西の一部を除いてはこちらが一般的だった。

『全国女性街ガイド』渡辺寛著(復刻版)p123

枚方(ひらかた)京阪電車・枚方下車

昔の宿場で三十六軒に百八名。どっしりとした家並の、黴くさいのれんの間から客を呼んでいる。十時から八百円なんて安い里だが、橋本に次いで、遊び慣れた四十男が好んで行くところ、その逆手をとり、若いものが行くとモテる。枚方新地という。

『枚方市史4巻』 p418

1909(明治42)年5月1日 貸座敷業者、桜新地に移転。




























カルチャア・コンビニエンス・クラブ(現在は株式会社芙蓉経営科学研究所に吸収合併されて解散している)のCEO(TUTAYA創業者)である増田宗昭氏のご実家というか自宅もこの辺りに存在。以下は関連項目のみ覚書として記載。

『カルチュア・コンビニエンス・クラブ』 wikiより

1983年3月24日大阪府枚方市に創業。初名は蔦屋であり1号店の店名は「蔦屋書店 枚方駅前店」。ちなみに、TSUTAYAの名前の由来はTSUTAYAの創業者である増田宗昭の祖父が営んでいた事業(置屋)の屋号が「蔦屋」であったことによる。「江戸時代の地本問屋「蔦屋」の主人で、写楽を世に送り出したとも言われている蔦屋重三郎にあやかり名付けた」という説もあるが、1999年までに社内教育用に使用された書籍には増田宗明の祖父の置屋の屋号に由来すると書かれているのみである。蔦屋重三郎由来説は、後に増田宗昭の知人から置屋由来よりイメージがよいので使用されてはいかがでしょうかというアドバイスによる後付けである。

『蔦屋重三郎』 wikiより

父(丸山氏)は江戸の吉原で遊廓の勤め人だったという。寛延3年(1750年)、重三郎も吉原に生まれ、のちに喜多川氏の養子になった。「蔦屋」は喜多川氏の屋号であり、吉原の茶屋といわれる。また、「耕書堂」とも号した。安永2年(1773年)、重三郎は吉原大門の前に書店を開き、はじめは吉原細見(店ごとに遊女の名を記した案内書)の販売、出版から出版業に関わっていった。

安永9年(1780年)に売れっ子作家・朋誠堂喜三二の黄表紙を出版したのを手始めに本格的に出版業を拡大。かねてから付き合いのあった狂歌師たちや絵師たちを集め、それまでにない斬新な企画を統括し(現代で言うプロデューサー業)、洒落本や狂歌本などでヒット作を次々に刊行した。天明3年(1783年)には一流版元の並ぶ日本橋に進出。浮世絵では喜多川歌麿の名作を世に送った

しかし自由な気風を推し進めていた田沼意次に代わり老中となった松平定信による寛政の改革が始まると、娯楽を含む風紀取締りも厳しくなり、寛政3年(1791年)には山東京伝の洒落本・黄表紙が摘発され重三郎は過料により財産の半分を没収、京伝は手鎖50日という処罰を受けた。

その後も、寛政6年(1794年)には東洲斎写楽の役者絵を出版するなどしていたが、寛政9年(1797年)に48歳で没。脚気であったという。面倒見がよく、また人の才能を見抜く術を心得ていたといわれている。写楽をはじめ曲亭馬琴十返舎一九など重三郎の世話を受けた人物は数多い。