2011年12月12日月曜日

河原町五条界隈の町並み⑥-京都府京都市下京区(2011.12.11)

河原町五条界隈の町並み
※2011.12.11撮影

◆七条新地
◆五条橋下
 大正元(1912)年~、七条新地に合併。
◆六条新地 大正元(1912)年~、七条新地に合併。


江戸時代中期、河原の畑地を開墾して煮売り茶屋を開いたことから遊廓の始まりだといわれ、江戸後期、明治期には京都で最大な遊廓として繁栄し、大正時代には三階建ての妓楼が立ち並ぶまでとなる。娼妓が大多数を占め、芸妓が少数いたが昭和初期には既に消滅している。 しかし、第二次世界大戦後は赤線に移行し、昭和33(1958)年の売春防止法施行により遊廓としての幕を閉じ、それ以後は『五条楽園』という芸妓一本の花街として現在に至る。

お茶屋と呼ばれる店舗があり、旅館のような構造をしている。花街におけるお茶屋と異なり、性風俗を扱っている。もともとは五条橋下(五条新地)、六条新地、七条新地という隣接する複数の遊廓であったが、これらが大正時代に合併し、長らく七条新地の名で親しまれた。かつてより芸妓と娼妓が混在する花街であり、戦後はいわゆる赤線となり、営業を続けていた。昭和33(1958)年の売春防止法施行後、五条楽園と名を変えた。当時はお茶屋84軒、置屋16軒、旅館15軒、バー・スタンド19軒で芸妓100人程度を擁していたという。現状は、五条楽園歌舞練場を中心に、一般民家に混ざってお茶屋15軒、置屋4軒が残っている程度である。大正から昭和初期に建築された、独特な唐破風屋根が映える京町家も現存する。平成22(2010)年10月28日、11月18日の両日にわたり、京都府警によりお茶屋と置屋の統括責任者、経営者ら5人が売春防止法違反容疑で逮捕された。これを受け、10月28日よりお茶屋と置屋は一斉に休業している。11月17日には一帯の入り口に掲げられていた『五條楽園』の看板も撤去された。