2016年5月2日月曜日

【明治村 54】天童眼鏡橋-山形県天童市(2016.04.30) △外観のみ(近景)

■天童眼鏡橋
明治20(1887)年
旧所在地 山形県天童市天童から老野森
博物館明治村5丁目54番地
※2016.04.30撮影



















★以下は、画像整理用覚書


この石造アーチ橋は明治20年(1887)将棋の駒で有名な山形県の天童に、それまであった木橋に替えて架けられたもので、「多嘉橋」と呼ばれた。幅7.7m、長さ13.3m、拱矢比(アーチ径間と高さの比)2.6のゆったりとしたアーチ橋で、地元の山寺石を積んで造られている。
アーチ構造の歴史は古く、紀元前4000年のチグリス・ユーフラテス地方にその原形を見ることができる。時代が下がって古代ローマに伝えられ、ローマ建築の基本構造に発展した。その構造は橋にも使われており、有名な水道橋に見られるように、築造技術は既に頂点に達していた。日本でのアーチ橋の初期の実例としては、江戸初期に造られた長崎の眼鏡橋があげられる。技術的には中国からの伝来と考えられ、そののち九州に多く架けられていったが、明治に入ると、欧米からの技術も加えられ、各地で架けられるようになった。日本の場合、欄干の組み立てなどには木造の技術も応用され、親柱に手摺を差し込むなどの構法がなされている。

アーチ

石造でもレンガ造でも同じであるが、アーチは「迫持ち」という原理によって成り立っている。くさび型の材料を円弧上に積み上げ、個々のくさび型の部材がその重量で中心へ落ち込もうとすることにより、隣り合う部材同士がきつく密着して、全体として形を保つ。その構造上、アーチを作る材料は十分に強固な材料でなければならず、かつ上部の重量も十分にあることが必要である。東京御茶の水の聖橋などは、アーチの応用例で、アーチの部分を厚い鉄筋コンクリート造とし、上部の重量が重くなりすぎないように束を立てて道路面の重量だけをアーチに伝えている。