2016年5月3日火曜日

【明治村 09】森鴎外・夏目漱石住宅-東京都文京区(2016.04.30) ×未確認

■森鴎外・夏目漱石住宅
明治20(1887)年頃
旧所在地 東京都文京区千駄木町
博物館明治村1丁目9番地
※2016.04.30未確認(ToT)

★以下は、画像整理用覚書


明治中期のごくありふれた建坪39坪(129.5㎡)余りのこの建物には、数々の由緒が遺されている。
明治20年(1887)頃、医学士中島襄吉の新居として建てられたものであるが、空家のままであったのを、明治23年森鴎外が借家、一年余りを過ごした。又、明治36年(1903)から同39年までは夏目漱石が借りて住んでいた。

鴎外は、ここに移り住む同じ年の1月、処女作小説「舞姫」を発表、この家では「文づかひ」等の小説を執筆し、文壇に入っていった。その後数々の作品を残し、明治の文豪の一人に挙げられるが、本業は陸軍の軍医で、明治17年(1884)から4年間ヨーロッパに留学、教育を受ける間に、「日本家屋論」をドイツの学会で発表した。これは、日本の家について、欧米から「不衛生」等と指摘されることに反駁するための論文であったが、認めざるを得ない点として、次のように示している。"家が低く、立ち机には向かない。畳は不衛生な材料である。家の構造そのものが暖房に向いていない。"と。

一方、約10年遅れてこの家に住んだ漱石は、ここで「吾輩は猫である」を発表、文壇にその名を高めた。文中に描写された家の様子は、猫のためのくぐり戸をはじめ、よくこの家の姿を写している。
二人の文豪が相次いで住んだことは由緒のあることだが、この家が当時の典型的中流住宅であって、かつ現代住宅へ発展していく新しい芽がいくつか含まれている点も注目される。3畳の女中部屋の前に、ほんの短いものではあるが中廊下のはじまりが見られ、各部屋の独立へと一歩踏み出している。また、南の面に書斎を突き出して建てており、この形が後に洋間の応接室として独立していく。西郷從道邸、学習院長官舎等と比較する時、一般庶民の洋風化の限界がそこにある。