2014年11月20日木曜日

【覚書】北新地の歴史<その1>-大阪市北区(2014.11.20)

元禄元年に堂島新地が誕生

南北を堂島川と国道2号線、東西を御堂筋と四ツ橋に囲まれた「北新地」の歴史は、江戸時代の元禄元(1688)年まで遡る。在の新地本通りと堂島上通りの間には、当時、堂島川から分流した曽根崎川(蜆川)が流れており、堂島川との中州を「堂島」と呼んでいた。貞享(1684~1687)年間、河村瑞賢が淀川本流の改修した際の堂島川と曽根崎川の浚渫工事により、堂島新地十一町ができた。その後の元禄元年に町割され、堂島新地が誕生。元禄10(1697)年に「堂島の米市」がここに設置されてからは、この地の周辺に多くいた各藩の蔵屋敷の役人や米市の商人を相手に遊所地として栄えた。

「北新地社交料飲協会50周年記念誌」より抜粋

◇新地
大坂では17世紀末の元禄期に河村瑞賢により安治川の開削、堂島川、曾根崎川の浚渫(しゅんせつ)など大規模な河川改修工事が行われ、安治川新地9町、堂島新地11町、堀江新地24町などの新たな町が成立している。このような新地開発は元禄期以後も続けられ、大坂の町は新地開発によって発展したといってもよい。江戸でも大坂ほどではないが、深川の埋立地を築出新地と呼んだり、尾張町1丁目新地のようにいったん火除明地になった後に町屋敷が復活した土地や、武家屋敷から町屋敷に変わった土地を俗称で新地、または新町、新屋敷と呼ぶ例は多い。

大阪は瀬戸内海を経て広く西方諸国と交通し、また淀川によって全国の中心京都と密接の聯絡を保った。淀川あるために大阪の蒙った利益が莫大であると共に、土砂沈滞河道壅塞による災害も亦著しいものであった。従って淀川本支流に対する工事は仁徳天皇以来幾十百回となく繰返され、徳川時代に至りまた大工事を見るに至った。工事の担任者は河村瑞賢、時期は第一回が貞享元(1684)年から同 4(1687)年まで、第二回が元禄12(1697)から同13(1698)年、範囲は淀川・宇治川・神崎川・中津川・伝法川・大和川・木津川・大阪市内諸川、一口にいへば淀川本支流に及んだ。さうしてこれらの工事中、直接大阪に関係した著しい分を挙げると、
①淀川の川口を一直線に掘割つたこと⇒元禄11(1696)年、この新川を安治川と命名す⇒市内諸川の水門を雁木(ガンギ)撤し、両岸に岸岐を作つたこと等で、安治川新地九町
②堂島川曾根崎川を浚渫したこと⇒堂島新地十一町
③堀江の地を東西に縦貫する堀江川を掘り、道頓堀の下流及び古川富島を修理したこと⇒堀江新地二十四町幸町新地五町古川新地二町富島新地二町
更に①③によって元緑以来安治木津両川口に追々新田の開発を見るに至った。②の結果平時の昇降を便ならしむるのみか、増水の際陸地と平準面に至るまでの包容水量を著しく増大し、これによつて漲溢の水害を除いたことは予想以上である。
『江戸と大阪』幸田成友(1873~1954)著/冨山房 1942 増補版より
◇慶長年間(けいちょうねんかん)
1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。

◆慶長元(1596)年
◆慶長 2(1597)年
◆慶長 3(1598)年
◆慶長 4(1599)年
◆慶長 5(1600)年
◆慶長 6(1601)年
◆慶長 7(1602)年
◆慶長 8(1603)年
◆慶長 9(1604)年
◆慶長10(1605)年
◆慶長11(1606)年
◆慶長12(1607)年
◆慶長13(1608)年
◆慶長14(1609)年
◆慶長15(1610)年
◆慶長16(1611)年
◆慶長17(1612)年 「(元)吉原遊廓」開場
現在の日本橋人形町にあたる(当時の)海岸に近い、葦屋町とよばれる2丁(約220m)四方の区画で、葦の茂る、当時の江戸全体からすれば僻地であった。「吉原」の名はここから来ている。
◆慶長18(1613)年
◆慶長19(1614)年
◆慶長20(1615)年

◇元和年間(げんなねんかん)
1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。

◆元和元(1615)年
◆元和 2(1616)年
◆元和 3(1617)年 河村瑞賢生誕
◆元和 4(1618)年
◆元和 5(1619)年
◆元和 6(1620)年
◆元和 7(1621)年
◆元和 8(1622)年
◆元和 9(1623)年
◆元和10(1624)年

◎河村瑞賢(かわむらずいけん)
元和 3(1617)年※生年を元和 4(1618)年とする説もある~元禄12(1699)年 6( 7)月16(12)日、江戸時代初期の政商。幼名は七兵衛、通称は平太夫、諱は義通。

◇寛永年間(かんえいねんかん)
1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。

◆寛永元(1624)年
◆寛永 2(1625)年
◆寛永 3(1626)年
◆寛永 4(1627)年 大坂瓢箪町に「新町遊廓」開場
その後徐々に発展し17世紀後半には新京橋町・新堀町・瓢箪町・佐渡島町・吉原町の5曲輪(くるわ)を中心として構成されるようになり、五曲輪年寄が遊郭を支配下においた。
◆寛永 5(1628)年
◆寛永 6(1629)年
◆寛永 7(1630)年
◆寛永 8(1631)年
◆寛永 9(1632)年
◆寛永10(1633)年
◆寛永11(1634)年
◆寛永12(1635)年
◆寛永13(1636)年
◆寛永14(1637)年
◆寛永15(1638)年
◆寛永16(1639)年
◆寛永17(1640)年
◆寛永18(1641)年
◆寛永19(1642)年 井原西鶴生誕
◆寛永20(1643)年
◆寛永21(1644)年
◆寛永22(1645)年

◎井原西鶴(いはら さいかく)
寛永19(1642)年~元禄 6(1693)年 8( 9)月10( 9)日、江戸時代の大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師。別号は鶴永、二万翁、西鵬。

◇正保年間(しょうほうねんかん)
1645年から1648年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。

◇慶安年間(けいあんねんかん)
1648年から1651年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光、徳川家綱。

◇承応年間(じょうおうねんかん)
1652年から1654年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇、後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。

◆承応元(1652)年
◆承応 2(1653)年 近松門左衛門生誕
◆承応 3(1654)年

◎近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん)

承応 2(1653)年~享保 9(1725)年11( 1)月22( 6)日、江戸時代前期の元禄期の人形浄瑠璃・歌舞伎の作者。本名は杉森 信盛(すぎもり のぶもり)。生まれは越前国(諸説あり)といわれる。家紋は「丸に一文字」。

◇明暦年間(めいれきねんかん)
1655年から1657年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。

◆明暦元(1655)年
◆明暦 2(1656)年
◆明暦 3(1657)年 「明暦の大火」にて「元吉原」炎上、「新吉原」(浅草寺裏の日本堤)へ移転。船場からの便宜をはかって「新町遊郭」に東大門ができる。

◇万治年間(まんじねんかん)
1658年から1660年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。

◇寛文年間(かんぶんねんかん)
1661年から1672年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。

◆寛文元(1661)年
◆寛文 2(1662)年
◆寛文 3(1663)年
◆寛文 4(1664)年
◆寛文 5(1665)年
◆寛文 6(1666)年
◆寛文 7(1667)年
◆寛文 8(1668)年
◆寛文 9(1669)年
◆寛文10(1670)年
◆寛文11(1671)年
◆寛文12(1672)年 船場からの便宜をはかって「新町遊郭」に新町橋が架橋

◇延寳年間(えんぽうねんかん)
1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。

◆延寳元(1673)年
◆延寳 2(1674)年
◆延寳 3(1675)年
◆延寳 4(1676)年
◆延寳 5(1677)年
◆延寳 6(1678)年 藤本箕山が著した『色道大鑑』(全18巻)、(初代)夕霧太夫没
◆延寳 7(1679)年
◆延寳 8(1680)年
◆延寳 9(1681)年

◎夕霧太夫
生年不詳~延宝6年1月7日(1678年2月27日)。本名は照。出身地は一説によると、現在の京都市右京区嵯峨の近くであるといわれる。いつ、どういう風に島原に入ったか不明であるが「扇屋」の太夫となり、のちに扇屋が大坂(大阪市)の新町に移転したため、新町の太夫となる。ここから大坂の太夫は生まれるのである。姿が美しく、また芸事に秀でた名妓であった。若くして病没すると、大坂中がその死を悼んだという。享年は22とも27とも伝えられる。亡くなった日は「夕霧忌」として俳句の季語にもある。墓は大阪の浄国寺、京都の清涼寺が有名だが他に徳島や和歌山にもある。死後、夕霧とその愛人・藤屋伊左衛門とを主人公とする浄瑠璃・歌舞伎などの作品が多く作られ、それらは「夕霧伊左衛門」または単に「夕霧」と総称された。近松門左衛門の浄瑠璃『夕霧阿波鳴渡』を始めとして、浄瑠璃の『廓文章』、歌舞伎の『夕霧名残の正月』『夕霧七年忌』などがある。毎年11月第2日曜日に清涼寺にて「夕霧供養祭」が催され、本堂での法要、島原太夫による奉納舞、太夫道中や墓参が行われる。

◇天和年間(てんな、てんわねんかん)
1681年から1683年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。

◆天和元(1681)年
◆天和 2(1682)年 井原西鶴41歳、処女作『好色一代男』(8巻8冊)発刊
◆天和 3(1683)年

◇貞享年間(じょうきょうねんかん)
1684年から1687年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇、東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。

◇元禄年間(げんろくねんかん)★
1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。

◆元禄元(1688)年 堂島新地が誕生
◆元禄 2(1689)年
◆元禄 3(1690)年
◆元禄 4(1691)年
◆元禄 5(1692)年
◆元禄 6(1693)年 井原西鶴没
◆元禄 7(1694)年
◆元禄 8(1695)年
◆元禄 9(1696)年
◆元禄10(1697)年 「堂島の米市」が設置、遊所地として栄えた
◆元禄11(1698)年
◆元禄12(1699)年 河村瑞賢死去
◆元禄13(1700)年
◆元禄14(1701)年
◆元禄15(1702)年
◆元禄16(1703)年 近松門左衛門、『曾根崎心中』発表
◆元禄17(1704)年

◎『曾根崎心中』(そねざきしんじゅう)
世話物浄瑠璃(江戸時代における現代劇浄瑠璃)。一段。近松門左衛門作。1703年(元禄16年)竹本座初演の人形浄瑠璃・文楽。のちに歌舞伎の演目にもなる。相愛の若い男女の心中の物語である。元禄16年4月7日(1703年5月22日)早朝に大坂堂島新地「天満屋」の女郎「はつ(本名妙、21歳)」と内本町醤油商「平野屋」の手代である「徳兵衛(25歳)」が西成郡曾根崎村の「露天神」の森で情死した事件を題材にしている。この事件以降、露天神社は「お初天神」とも呼ばれる事が多くなった。

「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」で始まる有名な道行の最後の段は「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」と結ばれ、お初と徳兵衛が命がけで恋を全うした美しい人間として描かれている。

【覚書】北新地の歴史<その2>-大阪市北区(2014.11.20)

遊女地として栄えた曽根崎新地

宝永(1704~1711)年間には、曽根崎川の北岸も改修がなされ、やがて、現在の地番「曽根崎新地1・2・3丁目」ができた。その後、米市が急速に発展し、周辺が商業地化したこともあり、遊所は曽根崎を渡った曽根崎新地へと移る。享保16(1731)年頃には、商業地域として堂島新地、遊所として曽根崎新地と区別されるようになり、天保13(1842)年に、曽根崎新地は公許の遊所地となる。しかし、その頃の中心地は、現在の北新地の場所ではなく、四ツ橋筋の西側(今の小学館ビル辺りの福島区との境付近)にあり、近松門左衛門作「心中天の網島」の舞台となった「大和屋」も、この界隈にあった。

「北新地社交料飲協会50周年記念誌」より抜粋

※前回の続き

◇寶永年間(ほうえいねんかん)★
1704年から1710年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇、中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉、徳川家宣。

◆寶永元(1704)年 現在の地番「曽根崎新地1・2・3丁目」ができる
◆寶永 2(1705)年
◆寶永 3(1706)年
◆寶永 4(1707)年
◆寶永 5(1708)年
◆寶永 6(1709)年
◆寶永 7(1710)年

◇正徳年間(しょうとくねんかん)★
1711年から1715年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川家宣、徳川家継。

◇享保年間(きょうほう、きょうほねんかん)★
1716年から1735年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。

◆享保元(1716)年
◆享保 2(1717)年
◆享保 3(1718)年
◆享保 4(1719)年
◆享保 5(1720)年 近松門左衛門、『心中天網島』発表
◆享保 6(1721)年
◆享保 7(1722)年
◆享保 8(1723)年
◆享保 9(1724)年 近松門左衛門没
◆享保10(1725)年
◆享保11(1726)年
◆享保12(1727)年
◆享保13(1728)年
◆享保14(1729)年
◆享保15(1730)年
◆享保16(1731)年 商業地域として堂島新地、遊所として曽根崎新地と区別
◆享保17(1732)年
◆享保18(1733)年
◆享保19(1734)年
◆享保20(1735)年

◎『心中天網島』(しんじゅう てんの あみじま)
近松門左衛門作の人形浄瑠璃。享保5年(1720年)12月6日、大坂竹本座で初演。全三段の世話物。同年に起きた、紙屋治兵衛と曽根崎新地の遊女小春の心中事件を脚色。愛と義理がもたらす束縛が描かれており、近松の世話物の中でも、特に傑作と高く評価されている。

◇元文年間(げんぶんねんかん)★
1736年から1740年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。

◇寛保年間(かんぽう、かんぽねんかん)★
1741年から1743年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。

◇延享年間(えんきょうねんかん)★
1744年から1747年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇、桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗、徳川家重。

◇寛延年間(かんえんねんかん)★
1748年から1750年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家重。

◇寶曆年間(ほうれき、ほうりゃくねんかん)★
1751年から1763年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。

◇明和年間(めいわねんかん)★
1764年から1771年までの期間を指す。この時代の天皇は後桜町天皇、後桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。

◇安永年間(あんえいねんかん)★
1772年から1780年までの期間を指す。この時代の天皇は後桃園天皇、光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。

◇天明年間(てんめいねんかん)★
1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。

◇寛政年間(かんせいねんかん)★
1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。

◇享和年間(きょうわねんかん)★
1801年から1804年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。

◇文化年間(ぶんかねんかん)★
1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文政期とあわせ、化政文化という。

◇文政年間(ぶんせいねんかん)★
1818年から1830年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。

◇天保年間(てんぽうねんかん)★
1830年から1844年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。

◆天保元(1830)年
◆天保 2(1831)年
◆天保 3(1832)年
◆天保 4(1833)年
◆天保 5(1834)年
◆天保 6(1835)年
◆天保 7(1836)年
◆天保 8(1837)年
◆天保 9(1838)年
◆天保11(1839)年
◆天保12(1840)年
◆天保13(1841)年 公許の遊所地となる
◆天保14(1842)年
◆天保15(1843)年
◆天保16(1844)年

◇弘化年間(こうかねんかん)★
1844年から1847年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇、孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶。

◇嘉永年間(かえいねんかん)★
1848年から1854年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。

◇安政年間(あんせいねんかん)★
1854年から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。

◇萬延年間(まんえんねんかん)★
1860年の期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。

◇文久年間(ぶんきゅうねんかん)★
1861年(文久2年)から1863年(文久4年)間での期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。

◇元治年間(げんじねんかん)★
2年に改元され、西暦では1864年と1865年にまたがる。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。

◇慶應年間(けいおうねんかん)★
1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。

【覚書】北新地の歴史<その3>-大阪市北区(2014.11.20)

明治45年「北新地」が誕生

明治に入ると、遊所地の中心部が、徐々に現在の北新地の場所へと移ってくる。明治42(1909)年に発生した、空心町を火元とする「北の大火」は、西へ西へと福島まで燃え広がり、辺り一帯が消失するという明治以後最大の火災となった。瓦礫の捨場となった曽根崎川はその後埋め立てられ、明治45(1912)年に堂島新地と曽根崎新地が一体化され、これが「北新地」の誕生となる。「北の大火」に見舞われたわずか6年後の大正 4(1915)年には、「北陽演舞場」が新築される。「北新地演舞場」が火災で焼けた後に再建されたものであるが、「【天満焼け(北の大火)】から、たった数年でこれだけ大規模な建築物を造った当時の北新地の復興力と財力は凄まじいものがあった。人々の芸事に対する思いにも、強いものがあったのだと思う」と当時の貴重な資料を所蔵する、北新地社交料飲会の元副理事長である牡丹俊夫氏は語る。北新地では明治15(1882)年から、「浪速おどり」が演じられてきた。堀江の「この花踊り」、南地の「浪速踊り」と並んで、大阪の春を飾る有名なイベントで、なかでも「浪速おどり」はもっとも古いものであった。大正 7(1918)年、当時の記録では「北新地」には芸妓置屋11軒、貸席153軒、芸妓825人がいたと記されている。

「北新地社交料飲協会50周年記念誌」より抜粋

◇明治(めいじ)
新暦1868年1月25日(旧暦明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは慶応4年9月8日(1868年10月23日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年とすると定めた。

◆明治元(1868)年 寺島の北部(現在の大阪市西区千代崎1丁目・2丁目)に「松島新地」開場
◆明治 2(1869)年
◆明治 3(1870)年
◆明治 4(1871)年
◆明治 5(1872)年 「堂島新地」という町名が無くなる
◆明治 6(1873)年
◆明治 7(1874)年
◆明治 8(1875)年
◆明治 9(1876)年
◆明治10(1877)年
◆明治11(1878)年
◆明治12(1879)年
◆明治13(1880)年
◆明治14(1881)年
◆明治15(1882)年
◆明治16(1883)年
◆明治17(1884)年
◆明治18(1885)年
◆明治19(1886)年
◆明治20(1887)年
◆明治21(1888)年
◆明治22(1889)年
◆明治23(1890)年
◆明治24(1891)年
◆明治25(1892)年
◆明治26(1893)年
◆明治27(1894)年
◆明治28(1895)年
◆明治29(1896)年
◆明治30(1897)年
◆明治31(1898)年
◆明治32(1899)年
◆明治33(1900)年 娼妓取締規則
◆明治34(1901)年
◆明治35(1902)年
◆明治36(1903)年
◆明治37(1904)年
◆明治38(1905)年
◆明治39(1906)年
◆明治40(1907)年
◆明治41(1908)年 非公認の売淫が取り締まられる
◆明治42(1909)年 「北の大火」発生
◆明治43(1910)年
◆明治44(1911)年
◆明治45(1912)年 堂島新地と曽根崎新地が一体化


◇大正(たいしょう)
大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。

◆大正元(1912)年
◆大正 2(1913)年
◆大正 3(1914)年
◆大正 4(1915)年 「北陽演舞場」が新築される
◆大正 5(1916)年
◆大正 6(1917)年
◆大正 7(1918)年 芸妓置屋11軒、貸席153軒、芸妓825人
◆大正 8(1919)年
◆大正 9(1920)年 2代目夕霧太夫(中村芳子)生誕
◆大正10(1921)年
◆大正11(1922)年
◆大正12(1923)年
◆大正13(1924)年
◆大正14(1925)年
◆大正15(1926)年

◎中村芳子(なかむら よしこ)
1920年10月30日~1987年12月3日、日本の女優・太夫。本名は渡辺芳子。夫は四代目中村富十郎、長男は初代中村亀鶴、父は初代中村鴈治郎。父の生家であった大阪新町の妓楼・扇屋が初代・夕霧太夫ゆかりの店であった縁で昭和55年(1980年)11月に夕霧太夫を襲名。毎年11月第2日曜日に初代ゆかりの寺で京都・嵯峨にある清涼寺にて開催される「夕霧供養祭」を始めたのは彼女である(彼女の死後は現役の太夫が行事を引継ぎ参加している)。島原の太夫として活躍の後、昭和62年(1987年)12月逝去。昭和63年(1988年)11月に清凉寺に歌碑が建てられる。

『あでやかに 太夫となりて 我死なん 六十路過ぎにし 霧はかなくも』

【覚書】北新地の歴史<その4>-大阪市北区(2014.11.20)

バー・クラブ街へ変貌を遂げた北新地

街のほとんどが消失した戦後まもなく、諸規則が改訂され、それまでの置屋は芸妓扱所となり、貸席も待合となる。現役の芸妓として今も活躍する平田席のさく一姉さんは「芸妓として北新地にデビューした昭和40年代には、150人ほどの芸妓が毎日、北新地のお座敷を賑わせていた」と語る。同時に、北新地は、昭和30年代後半からの高度成長期以降、社用を中心としたバー・クラブ街へとその形を変えていく。日本万博博覧会が大阪で開催された昭和45(1970)年には、北新地も大盛況だったが、その後、昭和46(1971)年のドルショックや昭和48(1973)年のオイルショック、昭和60(1985)年の円高不況、その後バブル景気が到来し、やがて終焉するなど、日本経済の乱降下する中でも、北新地はしっかりとその地場を固めながら現在に至っている。平成 9(1997)年3月には、JR東西線開通に伴う新駅の名称が「北新地駅」となり、名実ともに日本で有数の歓楽街へと成長を遂げた。

「北新地社交料飲協会50周年記念誌」より抜粋

◇昭和(しょうわ)
昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から、1989年(昭和64年)1月7日まで。

◆昭和元(1926)年
◆昭和 2(1927)年
◆昭和 3(1928)年
◆昭和 4(1929)年
◆昭和 5(1930)年
◆昭和 6(1931)年
◆昭和 7(1932)年
◆昭和 8(1933)年
◆昭和 9(1934)年
◆昭和10(1935)年
◆昭和11(1936)年
◆昭和12(1937)年 芸妓置屋9軒・貸席155軒、芸妓610人
◆昭和13(1938)年
◆昭和14(1939)年
◆昭和15(1940)年
◆昭和16(1941)年 太平洋戦争勃発
◆昭和17(1942)年
◆昭和18(1943)年
◆昭和19(1944)年
◆昭和20(1945)年 大阪大空襲にて「松島遊郭」消失、太平洋戦争終結
◆昭和21(1946)年 GHQによる公娼廃止指令
◆昭和22(1947)年
◆昭和23(1948)年
◆昭和24(1949)年
◆昭和25(1950)年
◆昭和26(1951)年
◆昭和27(1952)年
◆昭和28(1953)年
◆昭和29(1954)年
◆昭和30(1955)年
◆昭和31(1956)年
◆昭和32(1957)年
◆昭和33(1958)年 売春防止法施行
◆昭和34(1959)年
◆昭和35(1960)年
◆昭和36(1961)年
◆昭和37(1962)年
◆昭和38(1963)年
◆昭和39(1964)年
◆昭和40(1965)年
◆昭和41(1966)年
◆昭和42(1967)年
◆昭和43(1968)年
◆昭和44(1969)年
◆昭和45(1970)年 日本万博博覧会開催
◆昭和46(1971)年 ドルショック
◆昭和47(1972)年
◆昭和48(1973)年 オイルショック
◆昭和49(1974)年
◆昭和50(1975)年
◆昭和51(1976)年
◆昭和52(1977)年
◆昭和53(1978)年
◆昭和54(1979)年
◆昭和55(1980)年
◆昭和56(1981)年
◆昭和57(1982)年
◆昭和58(1983)年
◆昭和59(1984)年
◆昭和60(1985)年 円高不況
◆昭和61(1986)年
◆昭和62(1987)年  2代目夕霧太夫(中村芳子)没
◆昭和63(1988)年
◆昭和64(1989)年

◇平成(へいせい)
1989年(平成元年)1月8日から現在に至る。2001年(平成13年)の始まりには西暦における20世紀から21世紀への世紀の転換もあった。

◆平成元(1989)年
◆平成 2(1990)年
◆平成 3(1991)年
◆平成 4(1992)年
◆平成 5(1993)年
◆平成 6(1994)年
◆平成 7(1995)年
◆平成 8(1996)年
◆平成 9(1997)年 「北新地駅」設置
◆平成10(1998)年
◆平成11(1999)年
◆平成12(2000)年
◆平成13(2001)年
◆平成14(2002)年
◆平成15(2003)年
◆平成16(2004)年
◆平成17(2005)年
◆平成18(2006)年
◆平成19(2007)年
◆平成20(2008)年
◆平成21(2009)年
◆平成22(2010)年
◆平成23(2011)年
◆平成24(2012)年
◆平成25(2013)年
◆平成26(2014)年

2014年11月18日火曜日

【食べログ】レジェンド「あさ玉」-大阪市北区(2014.11.18)

玉鬘
大阪府大阪市北区曽根崎新地
※2014.11.18撮影

深夜から何やら胸騒ぎ、、、で、あまり深く眠れず、朝も陽の上がる頭は朦朧なれど何故か気は急く(笑)と言った感じで、気が付けば閑散とした朝の新地に立っておりました。激務の中の突発開催、お身体の事も心配ではあるけれど、深夜まで営業のお店のオーナー様がこの様な早朝からモーニングをなさるには、それなりの「大人の事情」もありましょう、、、「これっきり、これっきり、これっきりぃ~ですかぁ?」になっては(^^;)と、増沢磐二的「勘」と寝起きのアンニュイさで真っ暗なビルの中に入っていくと、既に先客ありで、カウンターの端では既に一升瓶を前のオハラショースケさんも鎮座なさるといった佇まい。

「うん、これも想定内、あり、あり(_ _)」と、横にチンと座らせて頂きましたが、いや、まぁ、しかし、朝から切なくなるようなこの豪勢さは、、、しかも来客のお歴々の面子も濃い濃い(笑)行く人、帰ってきた人、いずれかの地で心焦がす人(ここ微妙^^;)、、まことにハードボイルドでシャイン(「光る」「輝く」「目立つ」「優れた」。雑な表現な割には的を得てるやん。笑)な朝食でございました。本日もご馳走様m(_ _)m






2014年11月17日月曜日

京阪宇治駅-京都府宇治市(2014.11.16)

■京阪宇治駅
大正 2(1913)年 開業
平成 7(1995)年 駅前再開発にともなうにより現在地へ新築移転
京都府宇治市宇治乙方7-13
※2014.11.16撮影





【食べログ】大茶万本店-京都府宇治市(2014.11.16)

■大茶万本店
京都府宇治市宇治東内15
0774-23-1514
営業時間
定 休 日
※2014.11.16撮影




宇治市文化センター-京都府宇治市(2014.11.16)

■宇治市文化センター
昭和59(1984)年
京都府宇治市折居台1-1
敷地面積 27,233㎡
建築面積 9,018㎡
延床面積 11,831㎡
構  造 鉄筋コンクリート造及び鉄骨造
階  数 地上4階
総事業費 47億3千4百万円
http://www.wao.or.jp/ujibunka/
※2014.11.16撮影

◆第24回紫式部文学賞・市民文化賞贈呈式及び記念イベント
開 催 日 2014年11月16日(日)14:00~16:30














【食べログ】洋食とワイン「AJIな奴ら(あじなやつら)」-京都府宇治市(2014.11.16)

■洋食とワイン「AJIな奴ら(あじなやつら)」
京都府宇治市宇治妙楽49
0774-24-4312
営業時間 12:00~14:00(平日のみ)/ 17:00~23:00
定 休 日 月曜(祝日の場合は営業)
※2014.11.16撮影












宇治平等院-京都府宇治市(2008.09.06)

■宇治平等院
創 建 年 永承 7(1052)年
京都府宇治市宇治蓮華116
山  号 朝日山
宗  派 単立
本  尊 阿弥陀如来
開  基 藤原頼通、明尊(開山)
文 化 財 鳳凰堂、阿弥陀如来坐像ほか(国宝)、世界遺産
http://www.byodoin.or.jp/
※2008.09.06撮影


























※アップするのを忘れてたので、過去帳より、、、(この頃はちゃんと感想も書いてましたね^^;)

平等院へ行くのは小学校の遠足以来・・・友人が気を使って「まだ、一般参拝できるはずだから、チケット交換は私が並んでるからこの間に中、観ておいでよ。私は近いしいつでも来れるから・・・(^_-)」って言ってくれたので、凄く申し訳なかったんだけど涙、東京から来られたKさんと2人拝観料を払って先に中へ入る事に。「鳳凰堂」はすでに足場組みが終っていて中へは入れなかったんだけど、外では傷むのを防ぐ為にレプリカとなっている「梵鐘」や屋根の上の「鳳凰」一対、鳳凰堂を飾る「雲中供養菩薩像」など平等院に伝わる宝物を保存展示してある鳳翔館には入る事ができました。特に雲中供養菩薩像は素晴らしいぴかぴか(新しい)帰りに図録を眺めても一人でニヤニヤ

友人のおかげで無事、座席券を交換できたのが4時過ぎ・・・それでも開場までの5時40分までは1時間半以上時間がある。宇治川の周りを散策して、後は絶対外さない(笑)茶団子とお茶などを頂きながら開幕を待った。ご招待だから文句は言えないけど、芸術を楽しむ為にはなかなか苦労が必要であることよ・・・

さて、ようやく待ちに待った開演。出演者は第一のお目当てであったケルティック・ウーマンをはじめ、ジョシュア・ローマン、藤澤ノリマサ、雨谷麻世、天王寺楽所「雅亮会」、尾上和彦(オペラ作曲・指揮)、オペラ源氏幻想女声アンサンブルという面々ですが、実際には会場はパイプ椅子を組んだだけの臨時コンサート会場ですので、現地ではほとんどお顔を拝めません泣き顔・・・状態。まぁ、演出及びご尊顔はテレビで観てくださいって事ですね。それでもライトに照らされて幻想的な衣を纏った平等院の景観はそれはそれは美しく、あれを生観できたのとその美しい名刹をバックに奏でられる音楽を聴けただけでも行った甲斐がありました。まぁ、時間割の割には出演者が多すぎるとか、2009年春に公演があるという和製オペラ「月の影」-源氏物語-(源氏物語千年紀を記念した公演)の宣伝の為に出演されたオペラ源氏幻想女声アンサンブルは退屈だった・・・とか、VINCEROは原曲のままのアレンジで演ってくれぇ~とか細かい突っ込みどころはありましたが(笑)、いずれにしてもご招待、誘って友人、チケットをお譲り頂いた和尚は多謝!