南北を堂島川と国道2号線、東西を御堂筋と四ツ橋に囲まれた「北新地」の歴史は、江戸時代の元禄元(1688)年まで遡る。在の新地本通りと堂島上通りの間には、当時、堂島川から分流した曽根崎川(蜆川)が流れており、堂島川との中州を「堂島」と呼んでいた。貞享(1684~1687)年間、河村瑞賢が淀川本流の改修した際の堂島川と曽根崎川の浚渫工事により、堂島新地十一町ができた。その後の元禄元年に町割され、堂島新地が誕生。元禄10(1697)年に「堂島の米市」がここに設置されてからは、この地の周辺に多くいた各藩の蔵屋敷の役人や米市の商人を相手に遊所地として栄えた。
「北新地社交料飲協会50周年記念誌」より抜粋
◇新地
大坂では17世紀末の元禄期に河村瑞賢により安治川の開削、堂島川、曾根崎川の浚渫(しゅんせつ)など大規模な河川改修工事が行われ、安治川新地9町、堂島新地11町、堀江新地24町などの新たな町が成立している。このような新地開発は元禄期以後も続けられ、大坂の町は新地開発によって発展したといってもよい。江戸でも大坂ほどではないが、深川の埋立地を築出新地と呼んだり、尾張町1丁目新地のようにいったん火除明地になった後に町屋敷が復活した土地や、武家屋敷から町屋敷に変わった土地を俗称で新地、または新町、新屋敷と呼ぶ例は多い。
大阪は瀬戸内海を経て広く西方諸国と交通し、また淀川によって全国の中心京都と密接の聯絡を保った。淀川あるために大阪の蒙った利益が莫大であると共に、土砂沈滞河道壅塞による災害も亦著しいものであった。従って淀川本支流に対する工事は仁徳天皇以来幾十百回となく繰返され、徳川時代に至りまた大工事を見るに至った。工事の担任者は河村瑞賢、時期は第一回が貞享元(1684)年から同 4(1687)年まで、第二回が元禄12(1697)から同13(1698)年、範囲は淀川・宇治川・神崎川・中津川・伝法川・大和川・木津川・大阪市内諸川、一口にいへば淀川本支流に及んだ。さうしてこれらの工事中、直接大阪に関係した著しい分を挙げると、
①淀川の川口を一直線に掘割つたこと⇒元禄11(1696)年、この新川を安治川と命名す⇒市内諸川の水門を雁木(ガンギ)撤し、両岸に岸岐を作つたこと等で、安治川新地九町
②堂島川曾根崎川を浚渫したこと⇒堂島新地十一町
③堀江の地を東西に縦貫する堀江川を掘り、道頓堀の下流及び古川富島を修理したこと⇒堀江新地二十四町・幸町新地五町・古川新地二町・富島新地二町
更に①③によって元緑以来安治木津両川口に追々新田の開発を見るに至った。②の結果平時の昇降を便ならしむるのみか、増水の際陸地と平準面に至るまでの包容水量を著しく増大し、これによつて漲溢の水害を除いたことは予想以上である。
『江戸と大阪』幸田成友(1873~1954)著/冨山房 1942 増補版より◇慶長年間(けいちょうねんかん)
1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。
◆慶長元(1596)年
◆慶長 2(1597)年
◆慶長 3(1598)年
◆慶長 4(1599)年
◆慶長 5(1600)年
◆慶長 6(1601)年
◆慶長 7(1602)年
◆慶長 8(1603)年
◆慶長 9(1604)年
◆慶長10(1605)年
◆慶長11(1606)年
◆慶長12(1607)年
◆慶長13(1608)年
◆慶長14(1609)年
◆慶長15(1610)年
◆慶長16(1611)年
◆慶長17(1612)年 「(元)吉原遊廓」開場
現在の日本橋人形町にあたる(当時の)海岸に近い、葦屋町とよばれる2丁(約220m)四方の区画で、葦の茂る、当時の江戸全体からすれば僻地であった。「吉原」の名はここから来ている。
◆慶長18(1613)年
◆慶長19(1614)年◆慶長20(1615)年
1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。
◆元和元(1615)年
◆元和 2(1616)年
◆元和 3(1617)年 河村瑞賢生誕
◆元和 4(1618)年
◆元和 5(1619)年
◆元和 6(1620)年
◆元和 7(1621)年
◆元和 8(1622)年
◆元和 9(1623)年
◆元和10(1624)年
◎河村瑞賢(かわむらずいけん)
元和 3(1617)年※生年を元和 4(1618)年とする説もある~元禄12(1699)年 6( 7)月16(12)日、江戸時代初期の政商。幼名は七兵衛、通称は平太夫、諱は義通。
1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。
◆寛永元(1624)年
◆寛永 2(1625)年
◆寛永 3(1626)年
◆寛永 4(1627)年 大坂瓢箪町に「新町遊廓」開場
その後徐々に発展し17世紀後半には新京橋町・新堀町・瓢箪町・佐渡島町・吉原町の5曲輪(くるわ)を中心として構成されるようになり、五曲輪年寄が遊郭を支配下においた。
◆寛永 5(1628)年
◆寛永 6(1629)年◆寛永 7(1630)年
◆寛永 8(1631)年
◆寛永 9(1632)年
◆寛永10(1633)年
◆寛永11(1634)年
◆寛永12(1635)年
◆寛永13(1636)年
◆寛永14(1637)年
◆寛永15(1638)年
◆寛永16(1639)年
◆寛永17(1640)年
◆寛永18(1641)年
◆寛永19(1642)年 井原西鶴生誕
◆寛永20(1643)年
◆寛永21(1644)年
◆寛永22(1645)年
◎井原西鶴(いはら さいかく)
寛永19(1642)年~元禄 6(1693)年 8( 9)月10( 9)日、江戸時代の大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師。別号は鶴永、二万翁、西鵬。
◇正保年間(しょうほうねんかん)
1645年から1648年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。
◇慶安年間(けいあんねんかん)
1648年から1651年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光、徳川家綱。
◇承応年間(じょうおうねんかん)
1652年から1654年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇、後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。
◆承応元(1652)年
◆承応 2(1653)年 近松門左衛門生誕
◆承応 3(1654)年
◎近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん)
承応 2(1653)年~享保 9(1725)年11( 1)月22( 6)日、江戸時代前期の元禄期の人形浄瑠璃・歌舞伎の作者。本名は杉森 信盛(すぎもり のぶもり)。生まれは越前国(諸説あり)といわれる。家紋は「丸に一文字」。
1655年から1657年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。
◆明暦元(1655)年
◆明暦 2(1656)年
◆明暦 3(1657)年 「明暦の大火」にて「元吉原」炎上、「新吉原」(浅草寺裏の日本堤)へ移転。船場からの便宜をはかって「新町遊郭」に東大門ができる。
◇万治年間(まんじねんかん)
1658年から1660年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。
◇寛文年間(かんぶんねんかん)
1661年から1672年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。
◆寛文元(1661)年
◆寛文 2(1662)年
◆寛文 3(1663)年
◆寛文 4(1664)年
◆寛文 5(1665)年
◆寛文 6(1666)年
◆寛文 7(1667)年
◆寛文 8(1668)年
◆寛文 9(1669)年
◆寛文10(1670)年
◆寛文11(1671)年
◆寛文12(1672)年 船場からの便宜をはかって「新町遊郭」に新町橋が架橋
1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。
◆延寳元(1673)年
◆延寳 2(1674)年
◆延寳 3(1675)年
◆延寳 4(1676)年
◆延寳 5(1677)年
◆延寳 6(1678)年 藤本箕山が著した『色道大鑑』(全18巻)、(初代)夕霧太夫没
◆延寳 7(1679)年
◆延寳 8(1680)年
◆延寳 9(1681)年
◎夕霧太夫
生年不詳~延宝6年1月7日(1678年2月27日)。本名は照。出身地は一説によると、現在の京都市右京区嵯峨の近くであるといわれる。いつ、どういう風に島原に入ったか不明であるが「扇屋」の太夫となり、のちに扇屋が大坂(大阪市)の新町に移転したため、新町の太夫となる。ここから大坂の太夫は生まれるのである。姿が美しく、また芸事に秀でた名妓であった。若くして病没すると、大坂中がその死を悼んだという。享年は22とも27とも伝えられる。亡くなった日は「夕霧忌」として俳句の季語にもある。墓は大阪の浄国寺、京都の清涼寺が有名だが他に徳島や和歌山にもある。死後、夕霧とその愛人・藤屋伊左衛門とを主人公とする浄瑠璃・歌舞伎などの作品が多く作られ、それらは「夕霧伊左衛門」または単に「夕霧」と総称された。近松門左衛門の浄瑠璃『夕霧阿波鳴渡』を始めとして、浄瑠璃の『廓文章』、歌舞伎の『夕霧名残の正月』『夕霧七年忌』などがある。毎年11月第2日曜日に清涼寺にて「夕霧供養祭」が催され、本堂での法要、島原太夫による奉納舞、太夫道中や墓参が行われる。
1681年から1683年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。
◆天和元(1681)年
◆天和 2(1682)年 井原西鶴41歳、処女作『好色一代男』(8巻8冊)発刊
◆天和 3(1683)年
1684年から1687年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇、東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。
◇元禄年間(げんろくねんかん)★
1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。
◆元禄元(1688)年 堂島新地が誕生
◆元禄 2(1689)年
◆元禄 3(1690)年
◆元禄 4(1691)年
◆元禄 5(1692)年
◆元禄 6(1693)年 井原西鶴没
◆元禄 7(1694)年
◆元禄 8(1695)年
◆元禄 9(1696)年
◆元禄10(1697)年 「堂島の米市」が設置、遊所地として栄えた
◆元禄11(1698)年
◆元禄12(1699)年 河村瑞賢死去
◆元禄13(1700)年
◆元禄13(1700)年
◆元禄14(1701)年
◆元禄15(1702)年
◆元禄16(1703)年 近松門左衛門、『曾根崎心中』発表
◆元禄16(1703)年 近松門左衛門、『曾根崎心中』発表
◆元禄17(1704)年
◎『曾根崎心中』(そねざきしんじゅう)
世話物浄瑠璃(江戸時代における現代劇浄瑠璃)。一段。近松門左衛門作。1703年(元禄16年)竹本座初演の人形浄瑠璃・文楽。のちに歌舞伎の演目にもなる。相愛の若い男女の心中の物語である。元禄16年4月7日(1703年5月22日)早朝に大坂堂島新地「天満屋」の女郎「はつ(本名妙、21歳)」と内本町醤油商「平野屋」の手代である「徳兵衛(25歳)」が西成郡曾根崎村の「露天神」の森で情死した事件を題材にしている。この事件以降、露天神社は「お初天神」とも呼ばれる事が多くなった。
「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」で始まる有名な道行の最後の段は「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」と結ばれ、お初と徳兵衛が命がけで恋を全うした美しい人間として描かれている。
◎『曾根崎心中』(そねざきしんじゅう)
世話物浄瑠璃(江戸時代における現代劇浄瑠璃)。一段。近松門左衛門作。1703年(元禄16年)竹本座初演の人形浄瑠璃・文楽。のちに歌舞伎の演目にもなる。相愛の若い男女の心中の物語である。元禄16年4月7日(1703年5月22日)早朝に大坂堂島新地「天満屋」の女郎「はつ(本名妙、21歳)」と内本町醤油商「平野屋」の手代である「徳兵衛(25歳)」が西成郡曾根崎村の「露天神」の森で情死した事件を題材にしている。この事件以降、露天神社は「お初天神」とも呼ばれる事が多くなった。
「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」で始まる有名な道行の最後の段は「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」と結ばれ、お初と徳兵衛が命がけで恋を全うした美しい人間として描かれている。