2011年11月8日火曜日

【福岡県】北九州市小倉北区・小倉南区(未確認物件)

※実際に確認できてない、もしくは写真が撮れていない場所

■旧東京製綱旧小倉工場事務所
明治39(1906)年
福岡県北九州市小倉北区高浜1-3-1
清水組
http://gazone.morrie.biz/tokusyuu/tookyoo_seikoo.html

■旧東洋製綱小倉工場事務所と倉庫
明治39(1906)年
福岡県北九州市小倉北区浅野3-1-6 小倉興産3号館
093-513-6111
http://www.tokyorope.co.jp/company/histoy.html

■日本基督教団 小倉日明教会
昭和16(1941)年
福岡県北九州市小倉北区日明2-2-33
093-571-3893

■到津の森公園 子どもホール(旧到津遊園子供ホール)
昭和11(1936)年
福岡県北九州市小倉北区上到津4-1-8

■旧手向山砲台変電所
明治21(1888)年
福岡県北九州市小倉北区赤坂

■森鴎外旧居
明治30(1897)年
福岡県北九州市小倉北区鍛冶町1-7-2
093-531-1604
市指定有形文化財

森鴎外は文久2年(1862)1月l9日、現在の島根県津和野町町田に生まれました。明治5年上京、明治l4年東京大学医学部卒業後、軍医の道を進みます。明治l7年から2l年までドイツヘ留学し、この西欧体験は鴎外の教養と見識を深め、帰国後医学界、文学界の改新のために大活躍をしました。明治40年軍医総監陸軍省医務局長に就任し、軍医として最高の地位(中将官相当)につきます。小説家としても漱石とともに明治文壇に確固たる地位を築いた人です。作品には「即興詩人」の翻訳舞姫、高瀬舟、雁、山椒大夫、阿部一族などの多くを残しています。明治32年、軍医部長として小倉に赴任した森鴎外は初め鍛治町に住み後に京町に住みました。現在、鍛治町の住居が残っています。この旧居には森鴎外遺言書など若干の資料が展示してあります。それと49歳の時のほぼ等身大の写真がありますが、鴎外の身長は161.2cmだったそうです。今にしては低いほうですが、当時の平均身長は155cmなので、当時としては高かったようです。

■旧第十二師団司令部の正門
明治31(1898)年
福岡県北九州市小倉北区城内

明治8(1875)年に、歩兵第十四連隊が小倉に設置されました。明治18(1885)年、小倉城松の丸跡に、既設の第十四連隊と福岡の歩兵第二十四連隊を管轄する歩兵第十二旅団本部が開設されました。ついで、日清戦争後の軍備拡張のため、明治31(1898)年、小倉、大分、久留米、佐賀の各連隊や下関要塞砲兵連隊をもって第十二師団が生まれ、その司令部庁舎が本丸跡に建てられました。この煉瓦造の正門は当時のもので、明治32(1899)年6月から第十二師団の軍医部長を務めた森鷗外もこの門を通って登庁しました。なお、司令部は軍縮により、大正14(1925)年、久留米に移転することになりました。

■陸上自衛隊九州補給処城野支処(旧陸軍倉庫)※解体
福岡県北九州市小倉北区片野新町3
大正 3(1914)年
※2008年解体


■新日本製鐵紫川取水場ポンプ室
大正 7(1918)年
福岡県北九州市小倉北区木町2

■旧小倉陸軍造兵廠防空監視哨
福岡県北九州市小倉北区大手町

■レイメイ藤井事務所(旧小倉造兵廠施設)※解体
福岡県北九州市小倉北区大手町
RC3階建て
※2002年解体


■室町館※解体
福岡県北九州市小倉北区室町2
※2003年解体

現在のリバーウォーク真正面側にあったビアホール

■米七ビル
昭和 9(1934)年
福岡県北九州市小倉北区魚町1
RC3階建て

■菊屋百貨店(旧小倉玉屋)※解体
昭和10(1935)年
福岡県北九州市小倉北区室町1
RC5階建て
※2002年解体


■小倉ワシントンビル(旧かねやす百貨店)
福岡県北九州市小倉北区魚町3
昭和11(1936)年
RC7階建て

■寿橋
福岡県北九州市小倉北区堺町2
昭和12(1937)年
鉄筋コンクリート造アーチ橋

■ワイ・イー・テック小倉工場(旧小倉造兵廠施設)
福岡県北九州市小倉北区城内

■大成旅館(旧大成館)
福岡県北九州市小倉北区京町1
木造3階建

■旧朝日新聞西部本社※解体
福岡県北九州市小倉北区砂津1
RC4階建て
※2004年解体


■JR九州「石原町」駅(旧小倉鉄道「石原町」駅)
大正 4(1915)年
福岡県北九州市小倉南区大字新道寺372-2