■大里宿跡
※2009.03.22撮影
「大里(だいり)」の地名は、寿永2(1183)年、源氏に追われた平家がこの地に御所を定めたことから「内裏(だいり)」と名付けられ、享保年間に「大里」に改められたと云われる。長崎街道の始点として九州最北部に位置し、上り赤間関には海上約一里半(5.9Km)、下り小倉へは一里十九町十七間余(約6Km)となる宿駅。慶長17年(1612)冷水峠が開通して、長崎街道が短縮されたので、九州諸大名はこの路を参勤に利用するようになり(筑前六宿はこの時成立)、細川藩もこれに関連し本土渡海の為に、短距離で潮の都合のよい大里を選び、ここに宿駅を設置。
■人馬継所跡
問屋場とも言い、旅行者の便宜を図るための施設で、人足や馬、籠が常備されており、人々は料金を支払って次の宿まで旅行した。
■本陣(お茶屋)跡
小倉藩の宿泊所で、九州の諸大名、日田代官、オランダ使節等が江戸への往還の際に利用した。
■御番所跡
本州への渡海口に当たる為、船の出入りや人馬の切手改め、抜荷の取締りを行っていた。
■大里村庄屋石原宗祐屋敷跡
石原宗祐は、宝永7年(1710年)にこの大里村に生まれ28才で庄屋となり、宝暦7年(1757年)辞任するまで29年間庄屋を勤めた。その後は、猿喰新田の開拓に専念する等、生涯に門司区の六本松・小倉南区の新田開発を行った。
■重松彦之丞屋敷跡
本陣に次ぐ武士や公家用の宿泊、休憩場所であった脇本陣に指定されていた屋敷。伊能忠敬が文化7年1月12日に、測量に際し止宿したと日記に記載されている。