2013年4月9日火曜日

【新潟県】新潟市(未確認物件)

※実際に確認できてない、もしくは写真が撮れていない場所

【新潟県】新潟市

▶ 北区

■本間歯科医院
新潟県新潟市北区朝日町2-1-2
025-386-1414
新潟県新潟市西蒲区和納1597-10
0256-82-4615

▶ 東区

▶ 中央区

■旧齋藤家別邸
大正7(1918)年
新潟県新潟市中央区西大畑町576-2
明治から昭和初期に新潟の三大財閥と言われた齋藤喜十郎家が大正7(1918)年に建てた別荘。旧齋藤家本宅(東堀通7)の一部は「燕喜館」として白山公園内に移築再建し活用中。庭園は、建物に面して池を配置する回遊式庭園と呼ばれる様式で、大正6(1917)年から3年間かけ東京の高名な庭師松本幾次郎により作られた、高い造園技術を施した名園。建物は避暑と庭園鑑賞という目的に特化した開放的なつくりとなっている。夏の別邸がある中央区西大畑町周辺には歴史的な建物が多く、この別邸も隣接する行形亭(いきなりや)や北方文化博物館分館と共に「白壁通り」とも呼ばれるお屋敷町の風情にあふれた景観を形成している。

■佐野商店店舗兼住宅
昭和12(1937)年
新潟県新潟市中央区沼垂東4-13-13
営業時間 10:00~18:00※日によって変動
定 休 日 不定休
明治時代から続くタバコ屋。築70余年、国の登録有形文化財で木造総2階建の伝統的な町家の形式をよく保全している。

■T邸

■伊原美髪館
昭和初期

■勝山写真館
新潟県新潟市中央区沼垂西1-3-25
025-244-7232
  
■旧栄床

■二葉幼稚園
大正10(1921)年 創立
大正12(1923)年 園舎竣工
平成 9(1997)年 旧建物のデザインを踏襲して新築
新潟県新潟市中央区西中町714

■玉井歯科医院
新潟県新潟市中央区本町通9-1325
025-222-3996

■新和証券(旧山一證券新潟支店)※建替
昭和10(1935)年
新潟県新潟市中央区上大川前通6-1178-1 ストークビル柾谷小路
025-228-3331
清水組


■大和生命保険新潟支店(旧日本徴兵保険会社新潟支部)※現存せず
明治44(1911)年 創立
昭和15(1940)年 竣工
新潟県新潟市中央区東中通1-86-51
横河工務所(横河民輔)/竹中工務店

総工費はおよそ48万9千円(昭和15年当時)。当初はRC造で建てられる予定であったが日中戦争の勃発した昭和12(1937)年頃からの金属高騰により木造に設計変更されて建てられた。

▶ 江南区

■亀田郷土資料館(旧亀田町役場)※取壊予定
昭和 4(1929)年 役場
平成 2(1990)年 資料館
新潟県新潟市江南区亀田新明町1-2-3

■旧新潟県警察本部
明治13(1880)年
昭和 7(1932)年 移築
新潟県新潟市江南区元町2-2-64 佐文工業所内
※現在の佐文工業所の住所
新潟県新潟市江南区元町2-1-41
025-382-2171

▶ 秋葉区

■旧新津町遊郭
新潟県新潟市秋葉区新町

■今井医院
明治44(1911)年
新潟県新潟市秋葉区新津本町4-15-1

■東洋館ホール(旧新潟銀行新津支店⇒旧第四銀行⇒旧新聞販売所)
昭和 5(1930)年
新潟県新潟市秋葉区本町3-7-38

■新津市中央公民館金津分館(旧金津小学校講堂)※現存せず(2009年解体)
昭和2(1927)年
新潟県新潟市秋葉区古津88


▶ 南区

■渡辺医院
新潟県新潟市南区能登2-8-5
025-372-2568

■北越銀行白根支店(旧白根町役場⇒柏崎銀行本店)
昭和9(1934)年
新潟県新潟市南区白根3098
昭和6(1931)年の白根大火の後に建てられた旧白根町役場の建物。昭和46(1971)年に市庁舎は移転し、この建物は北越銀行に払い下げられ現在に至る。

■筒井歯科医院
昭和6(1931)年
新潟県新潟市南区白根
玄関ポーチの造作が特徴的

▶ 西区

▶ 西蒲区



かつて新潟市には、昭和初期まで「新潟花街」として「古町花街」、「下町花街(北廓)」、「沼垂花街」が存在していたが、戦後の新潟経済の低迷によって衰退。現在は「古町花街」が原型を留めるのみになっている。

▶ 古町花街

新潟県新潟市中央区古町にある、古町通八番町、九番町。西堀前通八番町、九番町。東堀通八番町、九番町で形成される花街。明治31(1898)年までに 遊郭が移転したことで誕生する。大正から昭和初期にかけて隆盛をほこり、現在においても高級料亭が12軒営業している。行形亭、有明、やひこ、寿々村、大丸、小三、かき正、鍋茶屋、金辰、等の新潟を代表する老舗料理屋が営業している。出身人物に川田芳子、藤蔭静樹がいる。第二次世界大戦での空襲を免れたことにより、明治後期から昭和初期の建築物が多く現存していることと、京都型(平入り)とは異なり、妻入りの町屋が立ち並んでいることである。現役の花街でこうした妻入り様式の建物を主体としているのは、全国で唯一とされている。

▶ 下町花街(北廓)
「十四番町遊郭」のとなりにある寄附町に存在していた花街。現在では住宅地となっている。

▶ 沼垂花街
沼垂町の沼垂四ツ角から日吉町にかけて存在していた花街。市川流市川登根が沼垂芸妓に指導をしていた。出身人物に小唄勝太郎、浅草〆香がいる。

▶ 新潟遊郭(旧)
明治26(1893)年以降に新潟町の各地に点在していた遊郭が、本町通十四番町付近の横七番街以北に集められて形成された遊郭。明治31(1898)年5月7日に発生した火事により全焼する。

▶ 新潟遊郭(新)⇒十四番町遊郭
新潟遊郭の全焼後に本町通十四番町に再建された遊郭。

▶ 常磐町遊郭
新潟遊郭の全焼後に、本町通十四番町にほど近い常磐町(現翁町)に再建された遊郭。

【年   表】

▶ 江戸時代

元和 2(1616)年
松平忠輝の後を引き継いで、堀直寄が新潟町(古新潟)に赴任する。このころの新潟町には、すでに遊女がいたといわれている。
明暦元(1655~1658)年間 
海沿いにあった新潟町が、現在の古町の区域に移転。
年号不定
現在の古町通3番町の西側に、新潟で最初の花街「中道」が形成される。
文政元(1818~1830)年間
「古町」、「脱奔小路」、「熊谷小路」、「嶋(毘沙門島)」に花街が形成される。
慶応 2(1866)年
市山流三代目市山七十朗に師事する「とし(味方ねん)」が市山姓を受け、四代目市山七十世となる。
慶応 4(1868)年
7月29日、戊辰北越戦争。未明に政府軍が新潟に侵攻。新潟町が戦場となる。

▶ 明治時代

明治元(1869)年
11月19日、新潟港開港。外国船との貿易が開始される。
明治 5(1872)年
10月2日、明治政府によって芸娼妓解放令が発令される。新潟県では10月20日に行われたが、遊女たちが稼業の継続を強く懇願したために遊女解放は有名無実に終わる。
明治 7(1874)年
3月、貸座敷規則、芸妓規則、遊女規則が布達される。
明治 8(1875)年
8月28日、三代目市山七十朗が逝去。
明治 9(1876)年
四代目市山七十世が、金比羅通金比羅神社隣の永楽座で三代目市山七十朗の一周忌追善舞踊会を開催する。(新潟における最初の舞踊公演会)
明治12(1879)年
2月、新潟花かがみ」が刊行される。6月芸妓の貸座敷への同居を禁ずる布達があり、芸妓は遊女と別居する。(新潟の花街における、芸妓置屋の起源)
明治13(1880)年
味方ねん(四代目市山七十世)が遊芸師匠の鑑札下付を願い出て、許可される。当初は古町通8番町の貸座敷五泉屋の広間を借りて指導、「五泉屋きち」が最初の弟子となる。その後、鈴木長蔵、荒川太二らが古町通9番町に稽古場付き住居を提供。市山流が新潟に定着する。3月、明治9年の「貸座敷遊女規則」が廃止となり、新たに「貸座敷及娼妓取締規則」が制定される。これにより「遊女」が「娼妓」と呼ばれるようになり、新潟県における公娼制度が確立される。
明治14(1881)年
8月、九代目市川團十郎を流祖とする市川流の名取となって「市川流市川登根」の看板を掲げていた舞踊師匠市川登根が、古町通1番町新明神社で門弟氏名を記録した桐板の額を献額する式を挙げる。
明治15(1882)年
2月、「歌舞遊女」の区分が廃止される。
明治18(1885)年
9月7日、新潟県南魚沼郡塩沢町の清水峠から関東に通じる国道「清水越え新道」が開通。新潟県令篠崎五郎が開通式終了後に参列した北白川宮能久をはじめ、山県有朋内務卿ら一行を新潟区白山公園内階楽館に招待。その余興として古町の雛妓8人による御前演舞が行われる。
明治19(1886)年
8月、初代萬代橋が開通。四代目市山七十世がこれを祝って作った曲である「新潟十景の内-渡り初め開化の賑ひ-」をお披露目する。その後まもなく「庄内屋しん」が柳原前光に身請けされる。
明治21(1888)年
2月24日、「貸座敷及娼妓取締規則」が改定され、新潟区の営業許可区域が次のように町名で明記される。(営業許可区域:古町通5~9番町、西堀前通5~9番町、東掘前通13番町、本町通13・14番町、南・北毘沙門町)。3月7日、「脱奔小路の火事」が発生。新潟県篠崎知事は、この火事を好機として遊郭統合を開始する。
明治22(1889)年
4月1日、市制施行で新潟市が発足。
明治23(1890)年
4月3日、住吉町から出火し、南毘沙門町に延焼。新潟県千田知事は前例に倣い、4月11日に南・北毘沙門町の両町を免許区域から除外。
明治26(1893)年
8月14日、古町通8・9番町、西堀前通8・9番町で火災。妓楼のほとんどを焼失。新潟県籠手田知事は同月23日をもって、残った妓楼に5ヶ年の猶予期間を与え、明治31年8月21日以後は同所における稼業を禁止する旨を厳命する。
明治30(1897)年
後藤象二郎の死去により、長男の猛太郎が後藤家を相続。伯爵位を継ぐ。これにより猛太郎の妻である古町芸妓出身の「三会るん」が伯爵夫人となる。
明治31(1898)年
5月7日、本町14番町から出火。304戸を焼失し、14番町の貸座敷がすべて全焼する。火災後、地主との借地料の交渉が不調に終わった14番町の楼主が借地条件の有利な隣接地へ移転。新設地を「常磐町(ときわちょう)」と改称し、同年6月に「常磐町遊郭」が形成される。8月21日、新潟町の各地に点在していた遊郭が横七番街以北に移転統合され、本町通14番町と常磐町(現翁町)からなる「新潟遊郭」が形成される。遊ふちょうに郭が移転したことで、新たに芸妓だけの花街「古町花街」が古町通8番町、9番町に誕生する。
明治33(1900)年
2月23日、函館の娼妓、坂井フタ(沼垂出身)が廃業を訴えた裁判で勝訴。9月18日、新潟遊郭横門前桜屋の娼妓であるサキが自由廃業する。
明治41(1908)年
1月、市川流市川登根、沼垂芸妓のために出稽古を始める。3月8日、新潟市古町通8番町、芸妓置屋若狭屋を火元とする火事(若狭屋火事)で古町花街の大半が焼け、初代萬代橋が焼け落ちる。このため、沼垂町鶴善楼へ出稽古中であった市川流市川登根は、しばらくの間、沼垂町に滞留して沼垂芸妓の舞踊指導にあたる。


▶ 大正時代

大正元(1912)年
市川流市川登根の孫で、藤間流藤間勘右衛門に師事していた会田力子が「藤間小藤」の名を許される。
大正 3(1914)年
4月1日、新潟市が信濃川対岸の沼垂町と合併。新潟市の花街に「沼垂花街」が加わり、「古町花街」「下町花街」「沼垂花街」の3花街となる。
大正 4(1915)年
新潟新聞社が新潟花街約300人の中から「新潟十美人」を選定する投票を5月1日から5月31日にかけて開催。
大正 5(1916)年
市川流市川登根が逝去。市山流四代目市川七十世の孫である川田亀が、五代目市川七十世を襲名。
大正 7(1918)年
市山流四代目市川七十世が逝去。
大正 9(1920)年
9月11日、古町芸妓の「庄内屋八重」であった藤間静江(のちの藤蔭静樹)が、新潟劇場で「藤蔭会第七回新潟公演」を開催。
大正11(1922)年
藤間小藤の妹で、藤間勘八の内弟子となっていた会田仲子が「藤間仲子」の名取名を許されて帰郷。市川登根の生前からの願いと師匠筋の了解を得て「市川仲子」を名乗る。10月23日、沼垂日吉町に市川登根の功績を称える「市川師匠謝恩之碑」が建碑される。
大正14(1925)年
市山流五代目、従来の温習会の名称を「市山研踊会」に変更。7月19日から20日に「第一回市山研踊会」を新潟劇場で開催。
大正15(1926)年
5月10日から12日に新潟市で「全国料理飲食店業同盟会第26回大会」が開催。2日目の余興に市川流(藤間連)の舞踊、3日目の余興に市山流の「連獅子」、「新潟八景」、「舟江名物盆踊り」が披露される。12月15日から16日に新潟劇場で「第二回市山研踊会」が開催される。市山流五代目の娘、実子(のちの六代目市山七十朗)が初舞台を踏む。


▶ 昭和時代

昭和 4(1929)年
8月、二代目の隣に鉄筋コンクリート橋の三代目萬代橋が竣工。
昭和 7(1940)年
坂井サイが市川流市川仲子の内弟子として入門。
昭和 8(1933)年
市山流が東京明治座で「市山研踊会東京公演」を開催。
昭和10(1935)年
新潟市産業組合が11月7日から10日にかけて、新潟花街の総力を結集した「舟江をどり」を開催。振り付けは市山流五代目市川七十世と市川流市川仲子が担当。しかし、昭和11年(1936年)の二・二六事件の発生と日独防共協定の締結、昭和12年(1937年)の日中戦争の勃発などにより1回の開催で中止となる。
昭和12(1937)年
盧溝橋事件が発生。花街の歌と踊りが事変色に染まる。
昭和15(1940)年
新潟県当局がカフェ、バーなどの風俗営業の新規開業を禁止。営業時間を制限するなど花街への取り締まりが強化される。市川流市川仲子の内弟子である坂井サイが「藤間茂藤」の名を許される。
昭和16(1941)年
真珠湾攻撃で太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦。
昭和19(1944)年
「決戦非常措置要綱」により、芸妓置屋や芸妓などが休業。芸妓連、女子挺身隊員として作業に従事。
昭和20(1945)年
8月11日、原爆疎開により新潟市が無人となる。8月15日、玉音放送が放送され、終戦を迎える。9月24日、米軍が新潟市に進駐し、新潟市公会堂に師団司令部を置く。
昭和21(1946)年
GHQの指令により公娼制度が廃止されるが、遊廓はほぼそのまま「赤線」の通称で呼ばれる地域として存続する。
昭和22(1947)年
7月1日、「飲食営業緊急措置令」が公布される。
昭和24(1949)年
4月1日、野菜の配給統制が解除される。11月30日、進駐軍が新潟から引き上げる。
昭和25(1950)年
4月1日、魚などの水産物の統制が全面的に撤廃される。7月、みそ、しょうゆが自由販売となる。古町の料亭が通年営業を再開。
昭和28(1953)年
8月、「古町芸妓番付」が発行される。
昭和32(1957)年
売春防止法が成立。
昭和33(1958)年
4月1日、売春防止法の施行。公娼地域としての遊廓の歴史が完全に幕を閉じる。
昭和34(1959)年
市川流市川仲子が逝去。新潟藤間流門下名取一同の協議により、藤間茂藤が西堀通8番町に稽古場を開き、希望者の指導にあたる。
昭和35(1960)年
古町芸妓202名を掲載したガイドブック「新潟花街」が発行される。(昭和30年代の古町芸妓の人数は200名前後で推移)
昭和41(1966)年
古町芸妓の人数が168名に減少する。
昭和43(1968)年
1月、市山流五代目市川七十朗が逝去。
昭和45(1970)年
古町芸妓の人数が136名に減少。昭和43年以降、振袖希望者が0人に。3月1日、市山流六代目市川七十世が、六代目市川七十朗を。六代目の娘、純子が七代目市川七十世を襲名。
昭和50(1975)年
七代目市山七十世が東京でリサイタル公演「市山七十世の会」を開催。以来、平成13年(2001年)まで20回開催される。
昭和51(1976)年
古町芸妓の人数が110名に。
昭和58(1983)年
市川流藤間小藤が逝去したことにより、新潟における市川流の系統が断絶する。
昭和61(1986)年
古町芸妓の人数が60名に。最年少の芸妓が36歳、平均年齢が53歳と高齢化する。
昭和62(1987)年
芸妓出入りの料理屋や財界人の出資により「柳都振興株式会社」が設立される。


▶ 平成時代

平成元(1989)年
市山流六代目市山七十郎により、「第一回ふるまち新潟をどり」が開催される。(以後、現在まで毎年開催)
平成 5(1993)年
2月、「第一回にいがた冬-食の陣」開催。古町芸妓が踊りを披露。以来「新潟芸妓華の舞」、「ふるまち料亭の味-芸妓の舞コース」と名を変ながらも、毎年踊りを披露する。
平成 6(1994)年
七代目市山七十世、平成6年度文化庁芸術祭賞を受賞。
平成 9(1997)年
「柳都振興株式会社」創立10周年記念祝賀会がホテルイタリア軒で行われる。
平成12(2000)年
11月、「柳都振興後援会」が設立される。
平成15(2003)年
7月23日、市山流、新潟市の無形文化財に認定される。
平成18(2006)年
2月17日、六代目市山七十郎が逝去。11月13日、「柳都振興株式会社」創立20周年記念祝賀会がホテルイタリア軒で行われる。
平成20(2008)年
6月15日、「第二十回ふるまち新潟をどり」開催。