2012年5月9日水曜日

祇園町界隈の町並み-京都府京都市東山区(2007.12.09)

■祇園町界隈の町並み
※2007.12.09撮影
※2008.07.22撮影


【祇園甲部】-Wikipediaより-
京都府京都市東山区花見小路四条下ル

寛永年間(1624~1645年)に祇園社(八坂神社)の門前で営業された水茶屋がこの花街の始まりで、京都所司代板倉重宗によって茶立ち女を置くことが許可され、門前の茶屋町を「祇園町」と称するようになった。寛文年間になると四条河原町に芝居小屋が建ち、四条通りと大和通りにも茶屋が開かれるようになり、弁財天町二十一軒町中之町山端町宮川町で「祇園外六町」と称した。享保17(1732)年、正式に茶屋渡世の営業許可が下りると元吉町橋本町林下町末吉町清本町富永町の「祇園内六町」が開かれ、さらに繁栄した。この際に、団子をモチーフにした紋章が作られた。この紋章は現在も祇園甲部と祇園東の紋章として使われている。江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1000人以上いたという。

しかし、東京奠都によって繁栄に陰りが差した祇園を立て直すために明治5(1872)年に一力亭の九代目当主杉浦治郎右衛門は大参事槇村正直や初代京都府知事長谷信篤の協力を得ながら「祇園甲部歌舞会」を設立し、芸による職業女性としての自立と地位向上をめざした。また、京都博覧会の付け博覧会として都をどりを企画し創設した。第一回の「都をどり」の振り付けを担当したのが三世井上八千代であり、これ以降の祇園甲部の舞いは井上流に限るとする取り決めがなされ、現在まで祇園の舞は井上流一筋となっている。(それ以前は篠塚流の存在も大きかった)。この時期、祇園は文人や政治家等に愛され大いに繁栄した。

大正元(1912)年、貸座敷取締規制改正により四条通両側、縄手通(大和大路通)におけるお茶屋営業が禁止され、四条通に面していた一力亭は入口を花見小路側に移設した。第二次世界大戦が始まると白川沿いの北側は建物疎開で破壊された(その中に磯田多佳が経営していた「大友(だいとも)」が含まれていた)。この地域は現在は遊歩道となっている。終戦(1945年~)後、祇園甲部はすぐに営業を再開、その5年後に「都をどり」が南座で再開(後に本拠地である歌舞練場に戻り、今に至る)。

新橋地区、白川沿い南側の茶屋昭和30年代から40年代にかけてお茶屋150軒、芸妓、舞妓合わせて600人を数えたが、時代の流れと共に花街の規模は縮小していった。古い街並みはビルに変わり、加えてバーやスナック、性風俗店の進出により環境が悪化する。新橋地区(元吉町)の住民はこの乱開発に危惧を抱き、この地域の町並み保存を行政に働きかけた。この結果、新橋地区は修景地区に指定され、1976年に重要伝統的建造物群保存地区として選定される。一方、祇園町南側(とくに花見小路周辺)は女紅場学園所有であるために乱開発は逃れ、歴史的風景特別修景地区に指定された。


【祇園東】-Wikipediaより-
京都府京都市東山区花見小路四条上ル東側

明治14(1881)年に入り、祇園甲部から分離独立した。一時は『祇園乙部』と称されたが、戦後は名称を『祇園東』に改め現在に至る。 祇園東の一帯はかつて膳所藩屋敷が存在していたことから地元では『膳所裏』と呼ばれていた。 近年の芸妓数減少で後継者難に極めている。 毎年、秋になると「祇園をどり」が開催される。舞踊の流派は篠塚流、井上流を経て現在は藤間流。

【宮川町】-Wikipediaより-
京都府京都市東山区宮川筋二丁目~六丁目


出雲阿国の歌舞伎踊りの時代から始まり、最初は若衆歌舞伎の小屋と茶屋が立ち並び10代の少年が接待をしていたので「陰間」と呼ばれていた花街だった。その後形態が変わり宝暦年間、正式に認可された。明治、大正、昭和33(1958)年3月15日の売春防止法施行までは遊廓であり、今でも遊廓時代の建物が残っている。現在は芸妓一筋の花街で、毎年春には『京おどり』が上演される。舞妓数は祇園甲部に続いて20人以上の大きい数を誇っている。舞踊の流派は明治以前は篠塚流、それ以降30年ほど前までは楳茂都流であったが現在は若柳流が主流である。 平成15(2003)年、宮川町芸妓ふく葉(同芸妓組合会長)、君直ちづるの三名が宮川町初の若柳流名取となった(一方富美蝶を代表とする楳茂都流の名取芸妓も健在である)。 平成18(2006)年、 歌舞練場改築工事で休演されていた芸妓の発表会である『みずゑ会』が31年ぶりに復活した。平成11(1999)年、宮川筋3丁目から6丁目の一部、西御門町にかけて祇園町南歴史的景観保全修景地区に指定された。

四条通りを大和大路へ曲がって
白川南通り&新橋通りをクネクネ通過

辰巳大明神の脇を通過して巽橋のふもと