東京都台東区千束3,4
※2012.07.15撮影
◆新吉原
【吉原土手】
現在の土手通りに平行して山谷堀があり、堀を船で通う遊客も多かった。堀と通りの間が土手になっていたが、現在では取り崩されている。現在も「土手通り」の通称で名前が残る。また、日本堤というのももとはこの土手を指したものである。
【衣紋坂(えもんざか)】
遊客がここで衣紋をつくろう(身なりを整える)ことに由来するという。土手通り[6]から吉原遊郭の入口の間にある坂。将軍が日光に赴く際などに、街道から遊廓を見通せないよう、S字状に道を付けたとされる。
【見返り柳】
衣紋坂入口の左手にある柳。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ振り返ったという。現在は跡地に石碑が建つ。すぐ後ろにある柳の木は昭和になってから植えられたもの。
【大門(おおもん)】
吉原歓楽街への正面玄関。治安目的は勿論、遊女たちの逃亡を防ぐため、出入はこの大門一箇所のみとされた。江戸時代には黒塗り木造のアーチ型楼門が建設され、明治期には2代目となる鉄門が築かれたが、1911年の大火で焼失。関東大震災を機会に撤去された。現在は「吉原大門(よしわらおおもん)」の交差点名が残るほか、直近の都営バス上46系統、草64系統、台東区循環バス北めぐりん(日立自動車交通)のバス停名として残っている。
【浄閑寺(じょうかんじ)】
吉原の北側、南千住2丁目にある寺。1855年の大地震の際、多くの吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになった。その後も、身寄りのない遊女たちを葬り、川柳に「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれた。慰霊のための新吉原総霊塔のほか、しばしば当寺を訪れた永井荷風の詩碑が建立されている。毎年、荷風の命日である4月30日頃に、寺の主催で「荷風忌」が営まれる。江戸時代に売春を行っていた女性に対する戒名は、「~売女」という極めて劣悪な戒名をつけられていた。
【真源寺(しんげんじ)】
入谷鬼子母神。7月の七夕の前後の朝顔市(ほおずき市)で有名。
【寛永寺(かんえいじ)】
大ぶりの花をつけるサクラが多数。