明治末(1910)年頃
旧所在地 愛知県半田市亀崎町
博物館明治村4丁目50番地
※2016.04.30未確認(ToT)
★以下は、画像整理用覚書
この東湯は、知多半島の先、三河湾に面する港町亀崎にあったもので、小さな町にふさわしく間口3間のこじんまりとした銭湯である。明治の末頃建ったと推定され、約半世紀にわたって営業されており、湯水を多く使う商売柄、建物の傷み・改変も少なくなかった。しかし、表構え、番台などに明治の古風な銭湯の俤が遺されている。
木造で前半分が脱衣室と和室が重なる二階建、奥の浴室部分が平家建になっており、屋根は前後とも切妻屋根である。外壁は和風の下見板張で、一階廻りにはガラス建具の窓・出入り口を開け、二階の窓には障子を立てている。
古来、日本の銭湯には湯屋と風呂の二つの形があった。湯屋は湯舟に満たされた湯の中に身を沈める形で、風呂は湯気に身を包む蒸し風呂の形式であった。しかし、蒸し風呂は密室を必要とし、多数の客を入れることができないため、次第に湯屋が主流を占めるようになった。
解体の時には、浴槽や床にはタイルが張られていたが、手法が新しいと判断されたため、明治末期の姿に推定復原した。男女の湯舟は隔てもなく、一つながりである。
解体の時には、浴槽や床にはタイルが張られていたが、手法が新しいと判断されたため、明治末期の姿に推定復原した。男女の湯舟は隔てもなく、一つながりである。
明治以前の湯殿には、「ざくろ口」という特有の入口があった。これは、湯舟から上る湯気の流出を少なくするため、湯殿の板囲いの出入口を低く押えたものである。しかし、湯殿の中が大変暗く、湯気がたちこめてあまり衛生的ではなかったため、明治12年(1879)禁止された。このように、維新後、いろいろな改良が加えられ、天井には湯気抜きが設けられるようになった。