2013年3月20日(水・祝) 10:00~12:00
【花街】祇園町周辺の文学散歩~木屋町から祇園、安井、八坂神社まで~
京都を代表する歴史的な花街、祇園町。この町には、お茶屋、芸妓と舞妓、そしてお座敷あそびにまつわる、実にさまざまな伝説や物語が生まれ、今に語り継がれてきました。そうした歴史物語の語り手は、たとえば夏目漱石や谷崎潤一郎、そして吉井勇に長田幹彦など、日本を代表する文人たち。彼らの語りに少しばかり耳を傾けながらこの町を歩けば、観光で残る印象とはまったく異なる風景が、皆さんの目に映し出されるにちがいありません。出発点は鴨川の西、高瀬川に面する木屋町ですが、木屋町と祇園町には、深いつながりがあったのでした。文学作品を片手に、春の鴨東を歩いてみませんか?きっとそこには、思いもよらぬ場所の記憶が埋め込まれていることでしょう。-まいまい京都紹介文より-
「漱石は、その50年の生涯の間に4回の京都への旅を試みた。まずその年月と漱石の年齢(数え年)と滞在日数(出発日を含む)とを記しておきたい。」-水川隆夫『漱石の京都』-
第一回 明治25(1892)年 7月~ 8月/滞在日数⇒ 5日間/年齢⇒26歳
第二回 明治40(1907)年 3月~ 4月/滞在日数⇒15日間/年齢⇒41歳
第三回 明治42(1909)年 10月 /滞在日数⇒ 2日間/年齢⇒43歳
第四回 大正 4(1915)年 3月~ 4月/滞在日数⇒29日間/年齢⇒49歳
夏目漱石の句碑(駒札)
木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに春の川を 隔てゝ 男女哉
漱石句碑は昭和41(1966)年11月、「漱石会」が明治の文豪夏目漱石(1867~1916)の生誕100年を記念して、句にゆかりの現地に建てた。漱石は、生涯、四度にわたって京都を訪れた。最初は明治25(1892)年7月、友人で俳人の正岡子規とともに。二度目は明治40(1907)年春、入社した朝日新聞に「虞美人草」を連載するためで、三度目は二年後の秋、中国東北部への旅の帰路であり、四度目は大正4(1915)年春、随筆「硝子戸の中」を書き上げた直後であった。このとき、漱石は、画家津田青楓のすすめで木屋町御池の旅館「北大嘉」に宿泊。祇園の茶屋「大友」の女将磯田多佳女と交友を持つが、ある日、二人の間に小さな行き違いが起こる。漱石は、木屋町の宿から鴨川をへだてた祇園の多佳女を遠く思いながら発句を送った。句碑にある句である。この銘板は、平成19(2007)年10月、京都での漱石を顕彰する「京都漱石の會」(代表・丹治伊津子)が発足したのを機に建てた。 ↑夏目漱石の句碑。その後ろは「おそめ会館」があった場所
■かもがわホール(旧おそめ会館)
京都府京都市中京区御池通木屋町東入上樵木町503-1
※頂いたレジュメより
その女の名は、上羽秀という。しかし、おそめ、という通り名のほうが人に知られているかもしれない。なんでも昔は有名なクラブのママで、京都ばかりか銀座にも店を持ち、飛行機で往復して「空飛ぶマダム」と呼ばれた人だという話だった。「おそめさん っていう人なのよ。それでね、お店の人に聞いたんやけど『夜の蝶』のモデルなんやって。小説で、映画にもなった、いう」-夜の蝶-そんな言い方が、あることは知っていた。酒場やバーに勤める女性たちの俗称として。しかし、私は、その言葉が生まれた背景に一編の小説があることも、ましてや、その小説に実在のモデルがあるということも、そのときまで、まるで知らないでいた。-石井妙子「おそめ」-
彼女は昭和十三年、十六歳のとき祇園から芸者に出た。生粋の京女である。その祇園芸者上りの彼女が、高瀬川のそばで散歩道として知られていた木屋町で、馴れないバーを開業しようというのだから冒険であった。彼女は柄のわるい客を敬遠する意味で、はじめからクラブ制をとったが、昭和二十三年に開店した頃は、普通のしもた家の四畳半ぐらいの玄関先を改造しただけの、カウンターに五人も坐れば満員というような小規模な店であった。トイレに立つにも座敷を通って裏へ行かねばならないので、高瀬川に行った方が早い、とよく冗談を言われたものだという。大佛(次郎)だけでなく小津安二郎もまた「おそめ」の熱心な客であった。大佛は京都を舞台とした作品を手がけることになって、足繁く古都を訪れるようになった。その中で門田の紹介により「おそめ」を知るのである。川端も「おそめ」には足しげく通った常連客のひとりである。気づけば里見弴や吉井勇ら、戦前は文壇茶屋「大友」に遊んだ面々が、そのまま「おそめ」の客になっていた。
店を開いてから幾日も経たぬ日のこと。はじめて一見客が、ドアを開けて顔をひょいと覗かせ た。落ち着きのある中年の紳士だった。「一杯、飲ましてもらえるかな」そう問う男の素朴な笑顔に秀はひと目で好感を持った。すると、ひょんな拍子にその客は、ぷっと吹き出した。「そしたら、サムじゃなくて『おそめ』だったの?」「へえ、そうどす。うちの名前と一緒どす。おそめですわ」秀が答えると、男は笑いながら続けた。「てっきりサムだと思ったよ。表のネオン『SOME』になってるから」表のネオンサインのOの字が、故障して消えていたのだった。「そうどしたんか。うち何にもしらんと。「そめ」やのうて「さむ」になってしまいますのん。せやけど、みんなにサムやと思われたら困ります。それやと、なんや男の人の名前みたいでけっ たいなことどすな」この一見客が誰であるのか、秀は後から知ることになる。男の名は、服部良一。服部は、すぐに「おそめ」の熱心な常連客になった。どれほど熱心な客であったか、「おそめ」 のために作った二曲の歌が物語っている。「おそめ囃子」に「おそめの四季」。「おそめ囃子」の作詞は、吉井勇が引き受けている。吉井勇は祇園時代から秀のファンで「おそめ」を開いてからは、やはり熱心な常連客のひとりとなっていた。秀のために短歌も何首か残している。-梶山季之「週間文春"新女将論"」-
⇒俊藤浩滋(しゅんどう こうじ) 1916年11月27日~2001年10月13日
日本の映画・テレビドラマのプロデューサー。本名は俊藤博(しゅんどう ひろし)。神戸市長田区出身。娘は富司純子。孫は寺島しのぶ・五代目 尾上菊之助。上羽秀は長年の同棲相手であり、後妻にあたる。夜間の神戸市立第二神港商業学校卒業。山口組最高幹部であった菅谷政雄とは同郷の幼馴染で、親友であった。太平洋戦争時には徴兵や軍需工場への動員で過ごすが、御影町の五島組(ごしまくみ)の賭場に通うなかで、大野福次郎親分に見込まれ戦後は興行の手伝いをしている。このため東映内部においても「あのひとは玄人上がり」という声が残っている。結婚していたが別居し、1948年、当時松竹の経営人の一人である白井信夫に身受けされていた上羽秀(後にバー「おそめ」のママとなり、小説・映画『夜の蝶』のモデル)と出会い、同居するようになる。大佛次郎・川端康成・小津安二郎・白洲次郎・川口松太郎などが贔屓して集まる「おそめ」にも顔を出すことで、この夜の社会からマキノ雅弘の映画撮影の手伝いや、鶴田浩二の東宝から東映への移籍、巨人監督を辞め、水原茂の東映フライヤーズ監督招聘などで、東映社長の大川博と縁を深めていく。1960年には、京都の御池に320坪の「おそめ会館」を開業し、ダンスホールやナイトクラブを経営した。
大正4年3月19(金)
三月十九日 朝東京駅発、好晴、八時発。梅花的れき。岐阜辺より雨になる。展望車に外国人男二人、女五人許。七時三十分京都着、雨、津田君雨傘を小脇に抱えて二等列車の辺を物色す。車にて木屋町着(北大嘉)、下の離れで芸妓と男客。 寒甚し。入湯、日本服、十時晩餐。就褥、夢昏沌、冥濛。-水川隆夫「漱石の京都」(漱石日記)-
駅には津田青楓が出迎えに来ていた。今回の京都への旅は、実は、鏡子夫人が漱石の神経衰弱をやわらげるために、内密で青楓に依頼したものであった。青楓からの招きを受け、漱石も心が動いて、次の連載小説を書くまでの間、京都で「呑気に遊びたい」(大4・3・9付 津田育槙宛書簡)と考えたのだった。三回目の京都への旅から約五年半が過ぎていた。二人は人力車に乗って、中京区(当時は上京区)木屋町三条上ルにあった旅館「北大嘉」に着いた。-水川隆夫「漱石の京都」(漱石日記)-