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2012年12月17日月曜日

土手の伊勢屋-東京都台東区(2012.07.15)

■土手の伊勢屋
昭和2(1927)年
東京都台東区日本堤1-9-2
03-3872-4886
天ぷら専門店
※2012.07.15撮影


















■坂井旅館※現在は廃業?
東京都台東区千束4-21-5
03-3875-7979

吉原神社-東京都台東区(2012.07.15)

■吉原神社
明治 8(1875)年 創建
大正12(1923)年 関東大震災後、現在地に移転
昭和10(1935)年 吉原弁財天を合祀
東京都台東区千束3-20-2
03-3872-5966
※2012.07.15撮影
























■キモノスイッチ
東京都台東区千束3-23-11
03-5603-1316
営業時間 10:00~18:00
定 休 日 土・日
http://kimonoswitch.com/
※2012.07.15撮影

千束の町並み-東京都台東区(2012.07.15)②

東京都台東区千束3,4
※2012.07.15撮影

◆新吉原

【吉原土手】
現在の土手通りに平行して山谷堀があり、堀を船で通う遊客も多かった。堀と通りの間が土手になっていたが、現在では取り崩されている。現在も「土手通り」の通称で名前が残る。また、日本堤というのももとはこの土手を指したものである。

【衣紋坂(えもんざか)】
遊客がここで衣紋をつくろう(身なりを整える)ことに由来するという。土手通り[6]から吉原遊郭の入口の間にある坂。将軍が日光に赴く際などに、街道から遊廓を見通せないよう、S字状に道を付けたとされる。

【見返り柳】
衣紋坂入口の左手にある柳。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ振り返ったという。現在は跡地に石碑が建つ。すぐ後ろにある柳の木は昭和になってから植えられたもの。



















【大門(おおもん)】
吉原歓楽街への正面玄関。治安目的は勿論、遊女たちの逃亡を防ぐため、出入はこの大門一箇所のみとされた。江戸時代には黒塗り木造のアーチ型楼門が建設され、明治期には2代目となる鉄門が築かれたが、1911年の大火で焼失。関東大震災を機会に撤去された。現在は「吉原大門(よしわらおおもん)」の交差点名が残るほか、直近の都営バス上46系統、草64系統、台東区循環バス北めぐりん(日立自動車交通)のバス停名として残っている。



















【浄閑寺(じょうかんじ)】
吉原の北側、南千住2丁目にある寺。1855年の大地震の際、多くの吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになった。その後も、身寄りのない遊女たちを葬り、川柳に「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれた。慰霊のための新吉原総霊塔のほか、しばしば当寺を訪れた永井荷風の詩碑が建立されている。毎年、荷風の命日である4月30日頃に、寺の主催で「荷風忌」が営まれる。江戸時代に売春を行っていた女性に対する戒名は、「~売女」という極めて劣悪な戒名をつけられていた。

【真源寺(しんげんじ)】
入谷鬼子母神。7月の七夕の前後の朝顔市(ほおずき市)で有名。

【寛永寺(かんえいじ)】
大ぶりの花をつけるサクラが多数。

千束の町並み-東京都台東区(2012.07.15)①

東京都台東区千束3,4
※2012.07.15撮影

◆新吉原

元和3(1617)年、現在の日本橋人形町の付近に「元吉原」とよばれる遊廓を開設。1657年、明暦の大火により焼失。現在の台東区千束に移転、「新吉原」と呼ばれるようになった。幾度の火災を経て、昭和33(1958)年の売春防止法施行まで遊廓の営業を続けた。現在は「石鹸の国」が密集する歓楽街である。

全国で何千とある遊郭の其の総てが湯女または飯盛女の進化した者であるが、東京の吉原と京都の島原だけは、最初から遊女屋として開業されたものである。-中略-最初に遊女屋を開業したのは庄司甚左衛門又の名を大阪小甚内という人で、慶長18年、今より約320年前に今の日本橋芳町へ開業した。その処はさびしい墨田の川岸で、四辺は一面葦原だったので名も芳原と命名したという事である。その後元和3年の火災にあい、直ちに同年3月現在の吉原に移転して今日に至ったものである。<中略>吉原の現勢としては、引手茶屋が45軒、貸座敷業が295軒、紅唇の娼妓が3560人働いている。震災後の建物は半永久的なものであるが、震災前の物に比べ何れも皆近代味を取り入れて、何処も彼処も明るい感じのする純日本風の建て方が何よりも悦ばしい傾向である。その後戦災で全焼した吉原は、戦後は一時、進駐軍向けの施設がつくられ、進駐軍撤退後は赤線のカフェー街となり、現在のソープ街と移行した。江戸時代は中心市街から船でアクセスしたため山谷堀側に大門があった。街区は中央の大通りである中之町通りを軸に大門側から見て右側手前から江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目、左側手前から江戸町二丁目、角町、京町二丁目と配置され、中之町通りの奥に吉原神社という構成である。
-「全国遊郭案内」(昭和4年)より引用-













 


















現在の吉原は、近年建て替えられたソープランド店が表通りを占める一方で、戦後のカフェー街時代の建物を町中に散見できるという町並みである。 江戸時代、山谷堀を通って吉原にアクセスした。現在は地中化され公園となっている。 新吉原遊郭鳥瞰図。右下が吉原大門で遊郭の入口、左上が吉原神社。仲之町通りを中心に整然と区画された新地であることがわかる。仲之町通り。この通りに面して風俗店は無い。仲之町通りに直行する京町2丁目通りのソープランド街。早朝から営業しているので、早朝の町並み探訪でも呼び込みのおにいさんから声を掛けられる。

【石鹸の国MAP】
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=202519597850818746787.00048fe010209a9ab1194&msa=0

【元吉原】
http://yosiwarasaiken.net/moyou/atochi.html
http://ginjo.fc2web.com/194sanmai_kisyou/yosiwara_map.htm