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2018年9月28日金曜日

個人住宅(松本邸・旧松一商店)ー兵庫県朝来市生野町(2018.09.23)

◆個人住宅(松本邸・旧松一商店)
主屋:明治(1868-1911/1912-1925増築)
兵庫県朝来市生野町口銀谷477
木造2階建、瓦葺、建築面積361㎡、1棟
登録有形文化財
※2018.09.23撮影


2016年5月12日木曜日

旧葛城館①-和歌山県橋本市(2016.05.07)

■旧葛城館
明治元(1868)年~明治44(1911)年
和歌山県橋本市高野口町名倉1053
木造3階建、瓦葺、建築面積113㎡、1棟
※2016.05.07撮影

JR和歌山線高野口駅前に北面して建つ。桁行5間半,梁間5間規模の総3階建で、東西棟、入母屋造、桟瓦葺とし、正面及び東側面には銅板葺の庇を各階に廻し、屋根正面には瓦葺の千鳥破風と銅板葺の唐破風を重ねる。木造3階建和風旅館建築の一事例。


明治末期の高野口駅周辺。
葛城館らしき3階立ての建物も見える。

葛城館裏側































★難波-(南海高野線)-橋本-(JR和歌山線)-高野口






旧葛城館②-和歌山県橋本市(2016.05.07)

■旧葛城館
明治元(1868)年~明治44(1911)年
和歌山県橋本市高野口町名倉1053
木造3階建、瓦葺、建築面積113㎡、1棟
※2016.05.07撮影

JR和歌山線高野口駅前に北面して建つ。桁行5間半,梁間5間規模の総3階建で、東西棟、入母屋造、桟瓦葺とし、正面及び東側面には銅板葺の庇を各階に廻し、屋根正面には瓦葺の千鳥破風と銅板葺の唐破風を重ねる。木造3階建和風旅館建築の一事例。


















2016年5月3日火曜日

【明治村 26】幸田露伴住宅「蝸牛庵」-東京都墨田区(2016.04.30) ×未確認

■幸田露伴住宅「蝸牛庵」
明治元(1868)年
旧所在地 東京都墨田区東向島
博物館明治村3丁目26番地
※2016.04.30未確認(ToT)

★以下は、画像整理用覚書


明治10年代(1877~1886)、下火となっていた戯作文学が、自由民権論、国権論、アジア主義等の隆盛に呼応した政治小説の形で復活してくるが、これとは別に人間の内面を描き出そうとする動きも出てきた。明治18年(1885)坪内逍遥は「小説神髄」を刊行して小説の新しい方向を提唱、これに応じる形で二葉亭四迷の「浮雲」が生まれたが、逍遥の内面尊重の主張はさらに幸田露伴へと受け継がれ、東洋的な観念を主題とする作品に結実してゆく。
露伴は幼少の頃算術を得意とし、長じて電信を学び、電信技手を勤めるが、傍ら漢籍や仏書を読破し、「小説神髄」に触発されて明治20年(1887)21才の時、官を辞した。その翌年発表した処女作「禅天魔」が尾崎紅葉の目にとまると、文筆の世界に足を踏み入れ、「風流仏」「対髑髏」「五重塔」等次々に発表、紅葉とともに紅露時代として一世を風靡した。
露伴は自分の家を「かたつむりの家(蝸牛庵)」と呼び、やどかりのように幾度となく住まいを変えている。隅田川の東にあったこの家もその内の一つで、明治30年(1897)からの約10年間を過ごしている。周辺には江戸時代から豪商の寮(別邸)や下屋敷が多く、この建物もその雰囲気を伝えるとともに、深い土庇のある座敷には水鳥を形どった釘隠しが付けられ、墨東の名残もとどめている。町屋と異なり、まわりの広い庭に自由に延び拡がった建物で、廊下を軸に玄関、和室、付書院のある座敷が千鳥に配されている。

【明治村 48】小泉八雲避暑の家-静岡県焼津市(2016.04.30) △外観のみ(近景)

■小泉八雲避暑の家
明治元(1868)年
旧所在地 静岡県焼津市城之腰
博物館明治村4丁目48番地
※2016.04.30撮影



























★以下は、画像整理用覚書


「怪談」で有名な小泉八雲はもとの名をラフカディオ・ハーンといった。1850年母の国ギリシャに生まれ、父の国アイルランドで教育を受け、のちアメリカに渡って新聞記者などをする一方、翻訳、評論、創作等の面で文名を高めた。明治23年(1890)来日し、英語教師として松江中学に赴任し、地元の小泉節子と結婚、同29年日本に帰化して小泉八雲と名のった。同年帝国大学に招聘されて東京に移り、帝大や早稲田大学で英文学を講じた。東京へ移った翌年から、夏を焼津で過ごすようになり、その時身を寄せていたのが、この魚屋、山口乙吉の家である。八雲には「乙吉の達磨」「焼津にて」など焼津を題材とした小説がある。
明治初年に建てられたこの家は、間口5.5m、奥行13.2mの町屋で、木造二階建桟瓦葺、両側面には和風のたて板を全面に張っている。本屋は軒の低い二階建、前面に一間程の庇を出して店構えとし、内部片側に通り土間を通す形式は、当時の町屋の典型的な形である。しかし、店前に余裕をもたせるため、左側一間分はそのままにして店と通り土間の前を奥へ下げている。二階の窓は戸袋を片側に寄せ、低い軒下を開け放って障子をいれている。
隣の本郷喜之床と比較する時、軒の高さや庇の出などにその時代の特徴を知ることができる。
内部一階右側は通り土間で、左に店、座敷が並ぶ。通り土間のほぼ中央、壁寄りには、屋根裏まで抜ける換気用の吹き抜きがある。二階では壁に囲まれて煙突状になっている。  一階の店の隅から二階への階段がある。二階は厨子二階とも呼ばれた屋根裏部屋が発展した形で、広い座敷二部屋と納戸になっている。天井が一部傾斜しており、屋根裏部屋の名残をとどめている。   

2016年5月2日月曜日

【明治村 64】菊の世酒蔵-愛知県刈谷市(2016.04.30) ◎外観・内装

■菊の世酒蔵
明治元(1868)年頃
旧所在地 愛知県刈谷市銀座
博物館明治村5丁目64番地
※2016.04.30撮影













★以下は、画像整理用覚書


この建物は、西洋館の多い明治村の中では珍しく和風瓦葺の蔵であって、梁間九間(約16m)桁行十八間(約33m)、外壁に厚い土壁を塗り廻した二階建部分と、幅二間(約3.6m)の吹き放ちの庇部分からなる。明治28年(1895)愛知県の刈谷にあった菊廣瀬酒造の仕込み蔵として建てられたが、もとは明治の初め刈谷から程遠くない三河湾近くの新川(碧南市)に穀物蔵として造られたものを移したという。
明治村は、昭和44年(1969)この建物を解体保存していたが、十数年を経た昭和58年(1983)12月 に移築公開した。移築に当たり、広い蔵の内部を明治村の収蔵庫兼展示場に利用するため、鉄筋コンクリートで新たに地下室を設けるとともに、内部構造の一部 を変更した。南半分は旧来の蔵造として遺したが、北半分は鉄筋コンクリート造に置き換え、下見板を張り廻して外観の様式を整えた。
尚、蔵造部分の一階には、酒蔵に因んで、酒造りに関する多数の資料を展示しており、入口の杉玉もその一例である。

二階木造部分内部
大屋根を支える小屋組は、古い民家の形式である。梁間を三等分し、中央の部分を本屋、両側を下屋といい、本屋は背の高い二本の独立柱を立て大梁を架けて鳥居形とし、上に和小屋を組む。下屋は外壁の側柱から登り梁を本屋桁に掛け渡している。