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2016年7月27日水曜日

2016年5月3日火曜日

【明治村 12】鉄道局新橋工場と明治天皇・昭憲皇太后御料車(鉄道記念物)-東京都品川区(2016.04.30) △外観のみ(近景)

■鉄道局新橋工場と明治天皇・昭憲皇太后御料車(鉄道記念物)
明治22(1889)年
旧所在地 東京都品川区大井町
博物館明治村1丁目12番地
※2016.04.30撮影




















★以下は、画像整理用覚書


開国前、ロシア使節プチャーチン、アメリカ使節ペリーがそれぞれ蒸気機関車の模型を持参した。それに刺激された佐賀藩では安政2年(1855)、日本最初の模型機関車を製作した。維新の後、新政府は政治安定のためには東西両京を結ぶ鉄道が必要と決意し、調査に着手した。そして明治5年(1872)新橋・横浜間に初めての蒸気機関車が走り、ついで同7年には大阪・神戸間も開通、東西の基点ができた。当時の役所は鉄道寮と称し東京に置かれていたが、明治7年本拠を大阪に移し、同10年鉄道局と改称、さらに同14年には本局が神戸に移された。これより先明治8年には神戸工場で国産第一号の客車が製造されているが、これはイギリスから輸入した走行部分に国産の木材の車体を載せて造られたものであった。なお、蒸気機関車の国産第一号の製造はこれより大きく遅れ、明治27年(1894)にやはり神戸工場で完成している。
客車・機関車の国産化が進められるのと同様、鉄道施設の国産化も行われた。明治22年(1889)に建てられたこの鉄道局新橋工場は、日本で製作された鋳鉄柱、小屋組鉄トラス、鉄製下見板、サッシ等を組み立てたもので、屋根は銅板で葺かれている。明治初年にイギリスから資材一切を輸入して造られた鉄道寮新橋工場(明治村4丁目に移築保存)に倣って、フィート・インチを設計寸法として造られているが、国産鉄造建築物の初期の実例として、当時の我が国の技術水準を知る上でも貴重なものである。
この鉄道局新橋工場の小屋組は、鉄製キングポストトラスで、形式・部材形状ともに先の鉄道寮新橋工場に倣ったものであるが、現代の小屋組よりもシンプルで軽やかである。
明かり取りになっている越屋根は、後に付け加えられたものであるが、ここに使われている鉄製窓サッシには「I.G.R.KOBE1889」との陽刻銘があって、鉄柱と同年代の国産鉄製サッシとして貴重である。

鋳鉄柱

明治村に保存されている二つの鉄道工場には、新旧四つの年代の鋳鉄柱が使われている。明治初年鉄道寮新橋工場を造るためイギリスから輸入された柱と、それを模して鉄道局で作られた明治15年(1882)、同22年、同35年製の柱である。このうち22年製のものがこの鉄道局新橋工場に、他のものが鉄道寮新橋工場にそれぞれ遺されている。

昭憲皇太后御料車(5号御料車)(鉄道記念物)


製造年代 明治35年(1902)
御料車とは天皇・皇后・皇太后・皇太子のための特別な車輌のことで、5号御料車は最初の皇后用御料車として製作された車輌である。全長16m余、総重量約22tの木製2軸ボギー車で、車内には帝室技芸員の橋本雅邦・川端玉章が描いた天井画、昭憲皇太后のご実家一条家の家紋の藤をあしらった布が椅子や腰張りに使用されているなど、華麗な内装がなされている。
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御座所内の川端玉章による天井画「帰雁来燕図」

明治天皇御料車(6号御料車)(鉄道記念物)

この御料車は明治時代に製造された6両の御料車のうち一番最後のものである。車輌の全長は20m余、総重量約33.5tの木製3軸ボギー車である。この車輌は歴代の御料車の中でもっとも豪華な車輌といわれ、車内天井に張られた蜀江錦、御座所内の金糸の刺繍や七宝装飾、また螺鈿装飾、木画といわれる木象嵌など日本の伝統的な工芸技術の粋を集めたものといえる。

  • 製造年代 明治43年(1910)
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  • 侍従室の木画(木象眼)
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  • 御座所内の七宝装飾の櫛形壁

【明治村 31】長崎居留地二十五番館-長崎県長崎市(2016.04.30) ×未確認

■長崎居留地二十五番館
建設年代 明治22年(1889)
旧所在地 長崎県長崎市南山手町
博物館明治村3丁目31番地
※2016.04.30改修中の為、未確認(ToT)
























★以下は、画像整理用覚書


長崎居留地二十五番館は、長崎に3ヶ所あった居留地-東山手・南山手・大浦-のうち南山手二十五番の建物である。この建物の最初の居住者はスコットランド出身のコルダー(Calder,John Fulton)である。彼は1867年来日し、最初長崎のボイド商会に、その後横浜の三菱製鉄所、神戸の大阪造船所を経て、三菱が長崎造船所を国から払い下げを受けた際、マネージャーとして請われて再び長崎の地を踏んだ。当初は造船所近くの会社が用意した住宅に住んだが、明治22年に造船所のある飽の浦を見下ろす高台の南山手に居を構えた。大阪造船所時代には日本初の「ドライドック」を建造、また長崎造船所では日本初の鋼鉄船で昭和37年まで高島炭鉱と長崎を結んでいた「夕顔丸」を建造するなど、明治期日本の造船業の発展に寄与したが、明治25年病に倒れ、45歳の生涯を長崎で終え、現在も長崎の坂本国際墓地に葬られている。

三方にベランダを廻らし、各室に暖炉を設けるなど典型的な居留地建築であるが、工法の上では古い点もあり、例えば、出入り口廻りの仕上げは化粧板を取り付けることなく、古い柱を削り出している。また、外壁は下地板の外に下見板を張り上げ、室内側は木摺下地に漆喰を塗り、防寒・防音に効果をあげている。その他、東南アジアのいわゆる植民地建築の影響を受け、軒が深くなっているため、屋根が冗長になるのを避け、本屋根からベランダの屋根を一段下げている。
本館完成から約20年後の明治43年(1910)、本館とは別の棟梁によって右奥に別館が増築された。和室も取り込んではいるが、外観は本館に合わせて洋風に仕上げられている。

【明治村 40】ハワイ移民集会所-アメリカ・ハワイ州ヒロ市(2016.04.30) △外観のみ(近景)

■ハワイ移民集会所
明治22(1889)年
旧所在地 アメリカ・ハワイ州ヒロ市
博物館明治村4丁目40番地
※2016.04.30撮影




















★以下は、画像整理用覚書


ハワイ島の町ヒロのワイルック川のほとりに、日本人牧師岡部次郎氏によって日本人のために建てられた教会であった。その後教会の役目を終えると、周辺の日本人の集会所となり、さらにヒロの英字新聞社の倉庫として使われるに至った。その頃は屋根を取りはらわれ、二階が増築されて、姿がかなり変わっていた。  移築当初、原形をとどめていた一階部分だけを復原したが、その後の調べで古写真が発見されたため、屋根を創建時の姿にもどし、建物周囲の柵や入口の橋などを補った。
単純な長方形平面の教会で中は一室になっている。正面入口の上にペディメントを飾り、軒蛇腹にデンティルコース(櫛型装飾)をめぐらせ、正面妻壁の中央に三角形の屋根換気口を開けている。外壁は洋風下見板平張、屋根は波形鉄板葺である。
この建物にある地方色としては、床が高いことが挙げられる。未だ開発の進まない土地では、治水もあまり完全ではなかったであろう。川のほとりの建物では、出水のことや日頃の湿気の心配があったと考えられる。
この建物の傍らに掲げられている国旗はハワイ王国の国旗である。また、建物入口に取り付けられた太鼓橋は、ハワイ島のヒロ市が雨の多いところで、建物周辺は常にぬかるんでいるため、ぬかるみを歩かず室内に入ることができるように設けられたものである。建物左手の鐘は「ペペケオ耕地の鐘」といい、移民たちは毎朝4時半にこの鐘で起床し、朝6時の開始の鐘から昼の30分の休憩をはさみ夕方4時半の終了の鐘まで10時間の肉体労働に従事した辛い記憶の鐘である。建物右奥にある白い「×」印のものはさとうきびを運んだシュガートレインの「踏切」の標識である。
ハワイ移民は明治元年、新政府に無許可のまま在日ハワイ総領事ヴァン・リードによって送り出された「元年者」にはじまる。彼らは労働者不足の砂糖工業に就いたが、炎天下での長時間の作業のため苦労を重ねた。
明治4年日布修好条約締結、明治14年ハワイ王朝カラカウア王来日などさらに移民交渉が進められ、明治18年からは26回にわたり官約移民が送られた。しかし不遇のなか契約期間の3年を迎えても貯蓄ができず残留するものがほとんどであった。

2016年2月1日月曜日

【食べログ】達脇ベーカリー 本店-京都府福知山市(2016.01.30)

■達脇ベーカリー 本店
明治22(1889)年 創業
京都府福知山市字上紺屋17
0773-22-2386
営業時間 9:30~18:00
定 休 日 日祝(祝は営業の場合あり)
※2016.01.30撮影


上のお店が出来る前は、奥で営業


2013年4月11日木曜日

北方文化博物館新潟分館主屋(旧会津八一邸)-新潟県新潟市(2009.10.11)

■北方文化博物館新潟分館主屋(旧会津八一邸)
明治22(1889)年
昭和 3(1928)年 洋館
新潟県新潟市江南区沢海2-15-25
025-385-2001
http://www.hoppou-bunka.com/index.html
※2009.10.11撮影



2011年11月18日金曜日