◆京都の住民がガイドする京都のまち歩きイベント「まいまい京都」さん
2013年02月03日(日) 09:00~12:00
【二条城】 城マニアと味わい尽くす!絶頂期の築城技術と装飾意匠
~贅を尽くした巨大御殿、神仙蓬莱の極上庭園、完成された石垣工法まで~
■元離宮二条城
慶長 8(1603)年 築城
明治 4(1871)年 廃城
京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 複合式望楼型5重5階(1603年移築)
複合式層塔型5重5階(1624年築)※非現存
築 城 主 徳川家康
遺構 御殿・櫓・門、石垣、堀、庭園
指定文化財 国宝(二の丸御殿6棟)
国の重要文化財(建造物22棟、御殿障壁画1016面)
国史跡、特別名勝(二の丸庭園)
世界遺産(古都京都の文化財)
http://www.city.kyoto.jp/bunshi/nijojo/
※2013.02.03見学※内部は撮影不可の為、写真はありません(^^;)
二の丸御殿の中は残念ながら撮影不可の為、ガイドのU林さんの興味深いお話を伺いながらひたすら脳内シャッターを押すのみ。「蘇鉄の間」に残された京都府庁舎時代(1871年~1885年)につけられた験し打ちの焼印(これこれ^^;)跡など、普通の見学では目に留めない様なトリビアにも遭遇して見学者は多いに沸きました(笑)以下は、HPの説明より…
※ガイドのU林さんはどうやら狩野派については面白みの無さに一文言お持ちのようでございましたが(笑)、これはこれ…一つの様式美として「あり」とせねばなりません。 アートとしては確かに面白みに欠ける絵ではありますが(^^;)、「職人の技」としてみれば素晴らしい技法と技術だと思います。つまり狩野派の画家は「Artist」ではなく「Meister」って事ですよね?(^_-)
【遠侍(とおざむらい)】
二の丸御殿内で最大の床面積をほこり、約1046.1㎡あります。一の間・二の間・三の間・若松の間・勅使の間等に分かれていて、城へ参上した大名の控えの間です。写真(二条城HP参照)の部屋は遠侍二の間で、虎の間とも呼ばれていて虎と豹(ひょう)の絵が描かれています。
※障壁画⇒竹林群虎図等
遠侍は二条城へ参上した大名たちの控えの間です。この襖には虎と豹が仲良く水を飲んでいる様子が描かれています。この頃の障壁画には、よく虎と豹が一緒に描かれていますが、豹は「雌の虎」と考えられていたのです。つまりこの二頭はカップル。虎の絵は近世になるとしばしば御殿の玄関近くに描かれるようになります。二条城のほかに、名古屋城本丸御殿の玄関にも「竹林豹虎図」が描かれていますが、訪れる人を威圧するためだったといわれています。
【勅使(ちょくし)の間】
この間は、将軍が朝廷からの使者(勅使)を迎えた対面所です。上段に勅使が座り、将軍は下段に座っていました。
※障壁画⇒青楓図
勅使の間は朝廷からの使者を迎える大切な場所です。上段側は、金地の源氏雲のなかに鮮やかな緑と朱の葉が映える青楓に緩やかな水景を添えて、爽やかな初夏の景観をあらわしています。
【式台(しきだい)の間】
参上した大名が老中職とあいさつを交わしたところです。将軍への献上品はこの部屋で取次がされました。襖絵(ふすまえ)は狩野探幽(かのうたんゆう)が描いたものといわれています。
※障壁画⇒雪中柳鷺図
式台は,式台の間・老中一の間・老中二の間・老中三の間の四つの部屋で構成されています。そのうちの老中の間三室は、式台の間の北側に隣接しています。老中たちの詰め所だったといわれるこれらの部屋は、長押上は白壁、天井は板張りという簡素な造りになっています。一の間と二の間には、春から秋の景に雁が舞う様子、この三の間には霜枯れし、うっすらと雪化粧した柳に数羽の鷺が宿る静かな冬の情景が描かれています。
【大広間一の間・二の間】
一の間は広さ48畳、二の間は44畳となっています。将軍が諸大名と対面した部屋で二の丸御殿の中で最も格式の高い部屋です。この部屋で慶応3(1867)年10月、15代将軍慶喜(よしのぶ)が諸藩の重臣を集め、大政奉還(たいせいほうかん)を発表した歴史的な部屋です。また二の間は後水尾天皇の行幸のときに、南庭につくられた能舞台の見所に使われました。
※障壁画⇒松孔雀図
大広間一の間と二の間は、二の丸御殿の中でもっとも公的な対面所です。一の間は他の部屋よりも一段高くなった上段の間で将軍が座るところです。一の間と二の間の境には仕切りがなく、大名たちは下段の間とも呼ばれる二の間に座って将軍に対面しました。二の間には、大きな松とともに、吉祥をあらわす孔雀が描かれています。
【大広間四の間】
将軍の上洛のときに武器をおさめた場所と云われています。襖絵は老松に鷹が描かれています。狩野探幽(かのうたんゆう)の作といわれています。
※障壁画⇒松鷹図
大広間四の間には、一羽の鷲と二羽の鷹が描かれています。この障壁画は、二の丸御殿の中でももっとも有名なものです。勇壮な猛禽類がいかにも将軍に似つかわしいからでしょう。巨大な松や渓流も描かれており、大広間の中でもっとも桃山時代の雰囲気を色濃く残している障壁画です。この部屋には将軍上洛の際に、武器類が収めされたと伝えられています。
【黒書院】
将軍と親藩大名・譜代大名の内輪(うちわ)の対面所です。大広間より若干規模は小さいのですが部屋飾りはより技巧的です。襖絵は探幽の弟、尚信(なおのぶ)の作品です。
※障壁画⇒桜花雉子図
黒書院は、江戸時代には「小広間」と呼ばれていました。文字通り、大広間よりひとまわり小さく、内輪の対面所として使用されました。一の間には早春をあらわす梅とつぼみを残した桜が描かれ、二の間に描かれた満開から散り初めの桜と躑躅は仲春から晩春への移り変わりを表しています。黒書院には、このように季節感にあふれた花鳥が描かれています。また、大広間のように長押の上下を連続した画面とはせず、まったく別の画面とすることによってバリエーション豊かな画面展開となっています。
【白書院】
将軍の居間・寝室だったところです。内部の装飾も大広間や黒書院とは趣向が異なっています。絵画は狩野興以(かのうこうい)または長信(ながのぶ)の作で、居間にふさわしい水墨山水画となっています。
※障壁画⇒西湖図
白書院は、将軍が休息するところで、江戸時代には御座の間と呼ばれていました。二の丸御殿のほかの建物と違って、一の間から四の間まで水墨画が描かれています。一の間と二の間の山水図は、中国の名勝である「西湖」を描いたものと伝えられています。しっかりとした筆づかいと執拗なまでに打ち込まれた点苔(小さな植物や苔を示す点々)が特徴的です。