2016年5月5日木曜日

【明治村 25】北里研究所本館・医学館②-東京都港区(2016.04.30) ◎外観・内装

■北里研究所本館・医学館
大正 4(1915)年
旧所在地 東京都港区白金
博物館明治村3丁目25番地
※2016.04.30撮影






























★以下は、画像整理用覚書

八角尖塔を頂く木造二階建のこの建物は、日本の細菌学の先駆者北里柴三郎が大正4年(1915)芝白金三光町に建てた研究所の本館である。

古代ギリシャのヒポクラテスを祖としてはじまった西洋医学は臨床学的、解剖学的な発展を遂げるが、微生物の存在については17世紀半ばに至るまで学者の想像の域を出ていなかった。1683年になってオランダ人レーベンフックが単式顕微鏡を使って、はじめて「小動物」(微生物)を確認、その後、顕微鏡の発達が微生物研究の進展を促し、19世紀後半パスツール、コッホらにより病気と微生物との因果関係が明らかにされるに及んで、基礎医学の一重要分野である医学的細菌学の確立をみた。

東大で医学を修めた北里柴三郎はドイツに留学、コッホのもとで、細菌学を研究し、破傷風菌の培養、破傷風の血清療法によって学界に認められた。帰国した翌年、明治25年(1892)福沢諭吉の後援を得て日本初の伝染病研究所を設立、大正3年(1914)同研究所が東大に移管されると野に下り、独自にこの北里研究所を創立した。
北里自身が学んだドイツの研究所に倣い、ドイツバロック風を基調に新時代の様式を加味した建物である。屋根は腰折屋根で天然スレートを葺き、小屋裏に明かりを入れる屋根窓を配している。
木造総二階建のこの建物は本来左翼の長いL字形であったが、移築に際し左翼屋を除いて復原している。上下階とも廊下が建物の南面(前面)に通されているのは顕微鏡観察のための措置で、光を変化の少ない北面から採り入れる方が良いとの考えによるものである。腰折屋根を作る小屋組は洋小屋クイーンポストトラスの変形である。

車寄上部には北里柴三郎が発見した「破傷風菌」と平和のシンボル月桂樹をあしらった紋章が取り付けられている。これは現在も北里学園の校章とされている。


レーベンフックについで、ロバート・フックによる複式顕微鏡が反響を呼んだ。当時鎖国下であった日本へは、まず長崎からもたらされ、身近な生物を研究材料に観察がはじめられた。
明治維新前後から各種の検査所、試験所が設けられると、改良の進んだ顕微鏡が次々に導入された。北里研究所本館・医学館内には、多数の顕微鏡を展示している。