2016年5月3日火曜日

【明治村 68】芝川又右衛門邸-兵庫県西宮市(2016.04.30) △外観のみ(近景)

■芝川又右衛門邸
明治44(1911)年
旧所在地 兵庫県西宮市上甲東園2丁目
博物館明治村3丁目68番地
※2016.04.30撮影




























★以下は、画像整理用覚書


芝川又右衛門邸は現在の西宮市甲東園に明治44年(1911)、大阪の商人芝川又右衛門の別荘として建てられた。設計者は当時京都工等工芸学校図案科主任で、後に京都帝国大学建築学科の創設者となる武田五一である。

芝川又右衛門は先代が大阪伏見町に唐物商(輸入業)「百足【むかで】屋」を開業し、三井八郎右衛門・住友吉左衛門などとともに明治13年(1881)の日本持丸長者鑑【かがみ】に、名を連ねた豪商の一人である。
又右衛門は明治29年(1896)に果樹園「甲東園」を拓き、明治44年(1911)には別荘としてこの建物を建築し、さらに日本庭園や茶室等を整え、関西財界人との交友の場とした。 現在、甲東園近くを通る阪急今津線(当時は阪神急行電鉄西宝線)は大正10年(1921)に開通していたが、当時甲東園には駅(停車場)がなかったため、芝川又右衛門は駅の設置を阪急に依頼し、設置費用と周辺の土地一万坪を阪急に提供した。この土地一万坪が甲東園一帯の土地開発の端緒となったといえる。
武田五一は明治34年(1901)から約2年半欧州へ留学し、帰国直後、貿易商・福島行信の依頼を受け、日本で初めて当時欧米で流行していたアール・ヌーボー様式を取り入れた住宅を設計した。その後、議院建築視察のため再度欧米視察をし、帰国後、芝川又右衛門より「洋館」の依頼を受け、ヨーロッパのグラスゴー派やウィーンのゼツェッションと数寄屋など日本建築の伝統とを融合したこの洋館を建てた。
この洋館は何度か増改築がなされており、現在確認できる範囲では、昭和2年(1927)に和館増築に併せ、洋館の外装など今回見るような姿に大きく変更された。日本における郊外住宅の魁ともいわれるものだが、阪神大震災の際被害を受け、平成7年(1995)秋解体され、平成17年1月に修復工事に着手し、平成19年9月に竣工した。

芝川家の記録には、明治44年に完成した建物を見た家族の「畳がリノリームになっただけで、まるで洋館らしいところはない」という言葉が遺されている。外壁は杉皮張、1階ホールは聚楽壁に網代と葦簾を市松状に用いた天井が用いられ、2階の座敷には暖炉が設けられるなど、全体として和の中に洋があしらわれた意匠であったが、関東大震災後の昭和2年に、隣接地に和館を増築する際、耐火を意識し、外壁はスパニッシュ風な壁に変更された。 関東大震災の際、木造建築が火災で大きな被害を受けたことから、外壁にスパニッシュ風な壁を用いることが大正末から昭和初期にかけて、特に関西を中心に大流行した。日本でスパニッシュと呼ばれる建築様式は、スペイン建築ではなく、スペイン系建築様式の影響を受けたアメリカの建築様式に影響を受けたものである。 武田五一は終生この芝川邸と深い関わりを持ち続け、創建時および度重なる増改築の際の図面や家具の設計図が遺されている。