2014年11月7日金曜日

本町通り界隈の町並み―新潟県新潟市(2009.10.11)①

■本町通り界隈の町並み
※2009.10.11撮影

「東新道」界隈が「現在も生きている色町」なら、港に近いこちらは完全に「過去の色町」。大正期の終わりまでは日本の中でも五本の指に数えられるほどの権勢を誇った町も、今はひっそりと黄昏色のあやうい光の中で静かにその余生を過ごしているように見えて、私はとても愛おしく思いました。 








































新潟の娼家の発生は元和(1616)年間以前と言われるが、寛永年間には古町神明町(現 古町通四番町)周辺に五、六軒の遊女宿が一団をなす公許の遊廓(「中道」と呼ばれていた)があった。その後、公許の遊廓に対して宝暦年間から上寺町や下寺町(現在の西堀界隈で「ダッポン小路」とも呼ばれた)にも娼家が出来はじめ、坂内小路や古町二、三の町周辺に私娼の一群(八百八後家と称される)が現れたりと、港町新潟の発展と共に女の街として栄え、全国的に知られるようになった。

天保年間、幕府の直轄地となった新潟の川村奉行は「女の街」として栄える港町新潟の風紀を改める為、古町と西堀の娼家を「泊茶屋」と名付け、私娼を「茶汲女」と呼び、熊谷小路と毘沙門小路の娼家を船宿と名付け、そこに働く遊女を「洗濯女」と呼ばせ他地域への広がりを規制。

その後、明治になり新潟が開港されると、政府は風紀を改める為にと遊女界を一括して移転しょうとしたが、反対の声が多く実現は出来なかった模様。しかし明治年間の数々の大火の度に少しずつ遊女街の免許地域は排除されてゆき、明治21年23年26年の大火で代表的な遊廓群が焼失したのを機会に、営業許可地を当時新潟島の北の外れだった本町十四番町に限定して、明治三十一年、公娼としての「新潟遊廓」を開設。その後、許可地は常磐町(西受地町)・寄付町・四ツ屋町一丁目・東堀十三番町・横七番町二丁目と広がったが、秣川岸・月町・花町等も私娼(公娼ではない)街として知られていた。


新潟遊廓(「本町十四番町」「常磐町」が二本柱)は大正期、全国で五本の指に数えられるくらい有名になったが、昭和に入り次第に寂れ、戦後、昭和三十一年に成立した売春防止法を受け、昭和三十三年の公娼廃止を待たずに長い歴史を持つ新潟遊廓の各業者は自主廃業した。


かつて新潟市には、昭和初期まで「新潟花街」として「古町花街」、「下町花街(北廓)」、「沼垂花街」が存在していたが、戦後の新潟経済の低迷によって衰退。現在は「古町花街」が原型を留めるのみになっている。

▶ 古町花街

新潟県新潟市中央区古町にある、古町通八番町、九番町。西堀前通八番町、九番町。東堀通八番町、九番町で形成される花街。明治31(1898)年までに 遊郭が移転したことで誕生する。大正から昭和初期にかけて隆盛をほこり、現在においても高級料亭が12軒営業している。行形亭、有明、やひこ、寿々村、大丸、小三、かき正、鍋茶屋、金辰、等の新潟を代表する老舗料理屋が営業している。出身人物に川田芳子、藤蔭静樹がいる。第二次世界大戦での空襲を免れたことにより、明治後期から昭和初期の建築物が多く現存していることと、京都型(平入り)とは異なり、妻入りの町屋が立ち並んでいることである。現役の花街でこうした妻入り様式の建物を主体としているのは、全国で唯一とされている。

▶ 下町花街(北廓)
「十四番町遊郭」のとなりにある寄附町に存在していた花街。現在では住宅地となっている。

▶ 沼垂花街
沼垂町の沼垂四ツ角から日吉町にかけて存在していた花街。市川流市川登根が沼垂芸妓に指導をしていた。出身人物に小唄勝太郎、浅草〆香がいる。

▶ 新潟遊郭(旧)
明治26(1893)年以降に新潟町の各地に点在していた遊郭が、本町通十四番町付近の横七番街以北に集められて形成された遊郭。明治31(1898)年5月7日に発生した火事により全焼する。

▶ 新潟遊郭(新)⇒十四番町遊郭
新潟遊郭の全焼後に本町通十四番町に再建された遊郭。

▶ 常磐町遊郭
新潟遊郭の全焼後に、本町通十四番町にほど近い常磐町(現翁町)に再建された遊郭。