2011年11月6日日曜日

旧門司税関1号上屋(旧大連航路発着所)-福岡県北九州市門司区(2009.03.21)

■旧門司税関1号上屋(旧大連航路発着所)
昭和4(1929)年
福岡県北九州市門司区西海岸1-3-10
大蔵省営繕管理局工務部工務課
鉄筋コンクリート2階建
延床面積4877㎡
※2009.03.21撮影

観光客で賑わう門司港駅付近や第一船溜付近とはうって変わって海岸通りの果てに忘れ去られたようにポツンと佇む廃墟のような建造物。その前にあった立看の心打たれる文章・・・同行した叔母が写真に撮っていたので転記させてもらいました。

【1号上屋のひとりごと】

ああ、やっと私の前に立ち止まってくださった。

ここが「旧大連航路待合室」だなんて、知る人も少なくなったからなぁ。昭和4年生まれだもの、私も年をとりましたよ。

でも玄関を見てごらん、アール・デコ様式でモダンでしょう?半円型の旧監視室は海側が「陸上待合室」、山側が「階下旅具検査場」と右から書かれていて時代を感じませんか?モダンを好んだ当時流行の書体でね、私の自慢なんだ。

そうそう、二階のデッキは100mもあって、乗船する人々で賑わったものです。門司港駅と同じように「みかど食堂」や「特別待合室」もあったなぁ。門司港が大陸航路の玄関口として一番輝いていたころだね。

岸壁には「うらる丸」「うすり●(判読不明)丸」、「吉林丸」、「大連丸」など大型客船がズラリと接岸した様子はそりゃあ壮観だった。乗客も国際色豊かで、ハイカラなモボ(モダンボーイ)やモガ(モダンガール)の姿が今も目に浮かぶようだよ。見送りのテープがカーテンのようにたなびいて、皆さんにも見せたかったなあ。

けれど戦時下は辛かった。ここからたくさんの兵隊や軍馬が出征していくのを見送りましたよ。太平洋戦争の末期、米軍は重要な輸送基地である開門海峡に機雷を投下して港の機能を奪ったんだ。機雷に触れて沈没した船のマストが林立して、海峡はまるで船の墓場のようだったよ。

機雷の掃海作業が完了して安全宣言が出たのが1949年(昭和24年)。港は朝鮮戦争の軍需景気で復活したけれど、皮肉なものだね、私は米軍に接収されて、1972年(昭和47年)に返還されるまでは、門司港の復興と当時の小学生の見学だけが慰めだった。

長い間ここに佇み、港の移り変わりを眺めてきたけれど、美しい夕焼けや潮流は昔のままだよ。やはり関門海峡の眺めはいいねえ。皆さんが楽しんでらっしゃる姿を見ていると心がなごみますよ。

ほっとしたくなったら、また門司港にいらっしゃい。

転記しているうちにまた涙がでてきました。この文章を作った人の感性も素晴らしいと思いますが、あまりにこの建物の現状のたたずまいと文章がマッチしててまるで建物自体が優しく話しかけてくれてるような・・・そんな錯覚を現地でも起こしました。こういう産業遺産こそもっと大切にして欲しいと思う反面、ずっとこのままの哀愁を維持しつづけて欲しいような・・・でも本当に、また是非、ほっとしに出かけたいです。