明治 3(1870)年
旧所在地 京都市中京区御幸通二条
博物館明治村2丁目19番地
※2016.04.30撮影
★以下は、画像整理用覚書
中井家は、江戸時代の天明7年(1787)京都河原町二条で商売を始めた。その後享和3年(1803)やや西の御幸通りで酒屋を開業したが、元治元年(1864)長州藩と会津・薩摩両藩京都御所蛤御門(はまぐりごもん)付近で衝突した事件(禁門の変)で焼失、その後、この建物が再建された。
京都御所の南方を南北に走っている御幸町通りは豊臣秀吉が京都の町を改造した時に新たに引かれた通りである。
軒が低く、屋根に緩いカーブを持たせているのは「むくり屋根」といって京都地方伝統の姿である。軒下漆喰塗りの壁には虫篭窓(むしこまど)が明けられ、屋根裏部屋の明り取りとなっている。一階正面の目の粗い格子は酒屋格子といって無双窓(むそうまど)の形式になっており、内側に薄い格子板が添わされていて左右にずらすだけで遮蔽ができるようになっている。
軒が低く、屋根に緩いカーブを持たせているのは「むくり屋根」といって京都地方伝統の姿である。軒下漆喰塗りの壁には虫篭窓(むしこまど)が明けられ、屋根裏部屋の明り取りとなっている。一階正面の目の粗い格子は酒屋格子といって無双窓(むそうまど)の形式になっており、内側に薄い格子板が添わされていて左右にずらすだけで遮蔽ができるようになっている。
狭い間口に比べ奥に長い建築は「町屋」と呼ばれ、入口から奥へ通り土間が通っている。この中井酒造では、通り土間の左側が座敷で住まいの部分、右側が吹抜きの作業場になっている。この建物の中では酒造り全工程のうち、新米の貯蔵、洗米、米蒸し、地下室での麹作りまでが行われ、仕込・貯蔵などは別棟で行われた。
蒸し竃の近くには酒造り職人である蔵人(くらびと)が休憩する「会所部屋」があり、座敷の上の屋根裏部屋には蔵人の寝部屋がある。
中井酒造の竃は、解体時のまま、レンガ造りとした。江戸時代までは土造り、石造りであったが、レンガ造りになり、燃料も薪から炭、石炭へと変わるなど明治時代に大きく改良を遂げたものである。
中井酒造の竃は、解体時のまま、レンガ造りとした。江戸時代までは土造り、石造りであったが、レンガ造りになり、燃料も薪から炭、石炭へと変わるなど明治時代に大きく改良を遂げたものである。