明治42(1909)年
旧所在地 東京都豊島区目白
博物館明治村1丁目7番地
※2016.04.30未確認(ToT)
★以下は、画像整理用覚書
文明開化の名のもとに、様々な場で洋風化が進められていくが、なかでも官公庁をはじめ、学校、軍隊、商工業などの仕事の場、公的な場では早くから洋式が採り入れられた。これに対し、私的な生活の場である住宅においては、洋風の波が及ぶものの完全には洋式とは成り得ず、和洋の混在する形式が生まれた。
明治42年(1909)に建てられたこの学習院長官舎も洋館と和館とをつなぎ合わせた形式になっている。学習院長という公的な立場での接客や実務には洋館部分を使い、私的な生活には日本座敷を用いた。立式生活の場である洋館は軒端が高くいかめしい造りで、洋風の下見板張の壁面には水切を兼ねた胴蛇腹が廻らされ、その上下に丈の高い上ゲ下ゲ窓が整然と並んでいる。一方、座式生活の場である和館は、総二階建であるが、洋館に比べ屋根が低い。
この学習院長官舎は、学習院が四谷から現在の目白に移された際、他の校舎とともにその構内に建設されたものであるが、当時の学習院長は陸軍大将乃木希典で、第十代目にあたる。
この学習院長官舎は、学習院が四谷から現在の目白に移された際、他の校舎とともにその構内に建設されたものであるが、当時の学習院長は陸軍大将乃木希典で、第十代目にあたる。
巾の広い階段室を間に、手前に洋館、奥に和館を接続させており、階段室の前には玄関ホールを設置している。この階段室を通って上下階とも洋館と和館の間を行き来できるようになっているが、さらに和館の奥に専用の階段が設けられている。
玄関には鉄製の軽やかな屋根がかかり、その妻には桜の花弁を表した飾りが設けられている。
玄関には鉄製の軽やかな屋根がかかり、その妻には桜の花弁を表した飾りが設けられている。