明治10(1877)年
旧所在地 東京都蒲田・神奈川県川崎間の六郷川(多摩川下流)
博物館明治村4丁目41番地
※2016.04.30未確認(ToT)
尾西鉄道蒸気機関車1号を撮影時に後ろに少しだけ 映っていましたが、意識して確認した訳ではありません |
★以下は、画像整理用覚書
明治5年、日本に初めて鉄道が開業された時、新橋横浜間に造られた大小22の橋は全て木橋であった。イギリスから鉄材を輸入して組み立てていたのでは、間に合わないという理由であった。開通の後、複線化の計画と共に鉄橋への架け替えが進められ、明治10年11月、日本最初の複線用鉄橋として、この橋が完成した。開通式は、時の工部卿伊藤博文も出席して、盛大に行われたと伝えられている。
橋の全長は約500mで、本橋と避溢橋からなり、本橋部に長さ100feet(約30m)の錬鉄製トラス桁(ポニー・ワーレン型)六連が使われていた。当時のお雇い外人、土木技師ボイル(英人)の設計したもので、明治8年(1875)英国リバプールのハミルトンズ・ウインザー・アイアンワークス社で製作され、輸入された。
明治45年、東海道線の複々線化に際してこの鉄橋は外され、単線用に改造された上、大正4年、御殿場線の酒匂川にかけられた。そして昭和40年、酒匂川でもその役目を終え、90年に及んだ現役の座を退いた。
復元に際し、狭められていた橋の幅員を創建当時のように複線に再改造、橋台・橋脚の姿も古い資料を基に復元設計し、石とレンガで構築、縦枕木、双頭レールなど軌道関係も旧状にならって敷設した。
明治45年、東海道線の複々線化に際してこの鉄橋は外され、単線用に改造された上、大正4年、御殿場線の酒匂川にかけられた。そして昭和40年、酒匂川でもその役目を終え、90年に及んだ現役の座を退いた。
復元に際し、狭められていた橋の幅員を創建当時のように複線に再改造、橋台・橋脚の姿も古い資料を基に復元設計し、石とレンガで構築、縦枕木、双頭レールなど軌道関係も旧状にならって敷設した。
頑丈さについて
ボイルが設計したこの六郷川鉄橋はすこぶる頑丈であった。それを示すエピソードがある。「......汽車が橋の上で脱線したことがあります。トラスの処では落ちずに、先のプレート・ガーダー(避溢橋部の構造名)の処で落ちたのです。理屈に合わない変な橋でしたが、英国流で兎に角頑丈な橋でした。」
"国鉄の回顧、先輩の体験談"
"国鉄の回顧、先輩の体験談"
※六郷川鉄橋上には、尾西鉄道蒸気機関車1号(P100)を展示。
鉄の橋
川や谷を渡るため、古来様々な橋が造られた。それらの材料は石や木等であった。が、18世紀中葉に始まった産業革命により、鉄の大量生産が可能になると、橋にもこの優れた材料「鉄」が使われるようになった。即ち、1779年、英国コールブルックデールに世界初の鉄橋が誕生した。(右)
日本での鉄橋の歴史は鉄道と共に始まっている。明治7年、大阪―神戸間の神崎川など三か所に、単線用の鉄橋がかけられた(現存せず)。因に、日本に現存する鉄造人道橋の最古のものは、東京にある弾生橋(明治11年)である。
日本での鉄橋の歴史は鉄道と共に始まっている。明治7年、大阪―神戸間の神崎川など三か所に、単線用の鉄橋がかけられた(現存せず)。因に、日本に現存する鉄造人道橋の最古のものは、東京にある弾生橋(明治11年)である。