明治23(1890)年
旧所在地 東京都渋谷区広尾
博物館明治村4丁目35番地
※2016.04.30撮影
★以下は、画像整理用覚書
明治10年(1877)西郷隆盛が九州で挙兵した西南戦争の際、敵味方の区別なく傷病兵の救護に当たった博愛社が日本赤十字社のはじめである。明治19年(1886)日本政府がジュネーブ条約に加盟、日本赤十字社と名を改めるが、その折皇室から渋谷の御料地の一部と建設資金10万円が下賜され、同23年この病院が建設された。
中庭を囲む分棟式の木造様式病院で、赤坂離宮と同じ片山東熊の設計であるが、離宮と異なり、大変質素で落ち着いた建物になっている。移築に際し、敷地の制約のため建物の方位が180度変えられており、現在南に面している前面ガラス張の廊下は本来北側にあったもので、暗くなりがちな北面を明るくするための意匠である。外部はハーフ・ティンバーを模したデザインを基調にしているが、細部にも楽しさがあふれている。現在北側になって目立たないが、病室窓の鎧戸の上部には手の込んだ透しがあり、軒の飾りも細かい影を落としている。又、棟上の換気塔等も、本来の目的を忘れさせるような楽しい形に作られている。病院の正面を飾っている額で、桐、竹、鳳凰が浮き彫りにされている。草創期の日赤をもりたてた昭憲皇太后のアイデアを基にしたものと言う。
ドイツのハイデルベルグ大学病院を模して二階建レンガ造で造られた本館を正面に据え、背後中央に大きな中庭を設け、その廻りに病棟を配する形は、陸軍軍医森鴎外も推奨していたものである。各病棟には、その端に便所が別棟として付けられている。